【TheWeekend】失われていくもの
『蝉』(ラブレスキュー)のサイドストーリーです。
10代最後の夏が終わろうとしている9月。
少し肌寒い朝があった。明け方まで客と過ごすことは絶対にないのに、その夜は40歳女性の愚痴にずっと付き合っていた。
新宿の大ガードの近くにあるホテルの一室。窓際に置かれた二つのソファに座り、もうぬるくなったコーヒーを飲みながら話を聞いていた。
せっかく夕食を作って待っていたのに、夜遅くに電話がかかってきて「仕事で遅くなるからいらない」と言われたとか。旦那が家で寝ている深夜に無言電話がかかってくるのは浮気相手が嫉妬で狂っているんじゃないかとか。最近旦那の下着がどれも派手になって気持ち悪いとか。
女性が話す姿を虚ろな気分で眺めていた。
19歳の子供にとって、それは別に楽しい話でもなく実感もない。ただ退屈でしかなかった。
へえそれはひどいね、それは寂しいね、それは頭に来るね、意味もなくそう言って相槌を打っていたが、今の自分の顔を鏡で見たら、きっと吐き気がするほど気持ち悪いだろうなと想像していた。
でもいい匂いのする美しい女性だった。甘く、少しシトラスが混ざった香りが髪からする。髪に触れるとしっとりとしていて、お金をかけているのが俺でもよく分かった。
窓の外には西新宿の高層ビルが近くに見えていた。明け方まで照明が灯っている会社がたくさん見えた。朝4時を超えると、次第に空が白んできた。
少し寒気がしたのは、シャワーを浴びて髪を乾かさないままソファに座っていたせいかもしれない。
あまり身体の調子が良くない。セックスするときも体が重かった。
「こんな時間。そろそろ帰らなきゃ」と客の女性は言った。
まだ5時にならない頃、チェックアウトしてホテルの外に出た。
悪寒がもっとひどくなっていた。まだ夏の終わりだというのに、ひどく寒く感じる朝。
客の女性はホテルの駐車場に停めたグレーのジャガーXJ-Sに乗り込んだ。
「送っていくよ?」と女性に言われたけれど、事務所に寄って帰るからいらないよと俺は嘘をついた。
女性は俺の胸ポケットに何かを押し込んだ。数枚の一万円札だと気づいた。
女性はジャガーから笑顔で手を振って、地鳴りのような排気音を響かせながら靖国通りの方向に走り去った。大通りを左に曲がるまで、俺は手を振っていた。
悪寒だけではなく、なにか、経験したことがない体調の悪さだった。熱があるわけではなかったが、歩くことすらしんどくなった。後頭部が痺れるように痛い。
その日は俺は休みの予定だった。昼過ぎにはパンクが俺の家に迎えに来て、夜は渋谷で映画を観ようということになっていた。
とりあえず部屋に帰りたい。新宿駅の東口まで歩いてたどり着ける気がしなかった。数百メールの距離が歩けない。偶然タクシーが走ってくるのが見えたので手を上げて停め、なんとか乗り込むことができた。
「お兄さん、ずいぶん体調悪そうだね。大丈夫かい。」と初老の運転手が言った。
きっと俺のことを面倒なヤク中だと思ったのだろう。金髪の俺は、どこから見てもこの町に棲む商売男だったから。
きっと悪い風邪だろうと思った。パンクが来るまで寝ていればきっと治る。風邪薬を飲んで少し横になろうと思った。
服を自分でなんとか剥ぎ取って、うめき声をあげながらベッドに潜り込んだ。 だが、横になって1時間もすると、体調はより苦しくなった。
寝ぼけていたのだろうか。文字通り腹の底から湧き上がってくるような強い怒りで、身体が脈打つような気がした。何について怒っているのか、何について頭に来ているのか、自分でもよく分からないが、とにかくものすごい怒りで心臓が口から出そうなほど強く鼓動しているのが分かった。
夢だったのか、いつもの幻覚だったのかは分からない。幼い頃の両親のことを考えていた。そして、捨てられた日のこと。小学校に入っても勉強についていけず、高学年まで九九すら言えなかったこと。壮絶ないじめを受けていたこと。死ねばいいのにとあらゆる人から言われたこと。俺を捨てた母親に面会を拒絶され続けたこと。
それが怒りの理由かどうかは分からない。でも、まるで現在起きていることのように記憶が迫ってきた。叫びだしそう。大声を出してそんな感情を振り払いたい。そのうち明らかにまともじゃないものが目に見えるようになった。
記憶の中の母親が目の前に現れては黒い服に着替えなさいと俺に何度も怒鳴ったり、その横では同級生たちがナイフを持ち出して俺を殺そうとしている姿も見えた。
夢なのか、幻覚なのか。目を覚ましても騒がしい声がする。
大人になって思うと、この頃、病気が重くなり始めていた。高校生になる頃に始まった幻聴と幻覚。そして現実感の喪失。頑張って勉強し入学した進学校で、まったく勉強が出来なくなる原因を作った病気だった。
現代ならきっといい薬もある。親も教師も理解してくれるだろう。でも当時は治療などしたこともなく、怠けものと言われ惨めな思いを随分とした。
その病気が、また始まっていたのだと思う。
19歳のその頃、過労とストレスが重なっていたのも原因の一つかもしれない。俺は毎日生きることに必死だった。
疲れているはずなのにもう眠れなくなり、遮光カーテンを閉め切ったまま、テレビをつけてバーボンの瓶を手にした。店の社長が俺にくれたワイルドターキー。あまり好きな酒ではなかったが蓋を切り、適当にグラスに注いでストレートで飲んだ。
味がしなかった。熱いものが喉から降りていくのが分かっただけで、香りも味もしない。味覚がない。高校生の時と同じだ。あの頃、ドーナツとポテトチップスの味が分からなくなっていた。
テレビでは暇な主婦向けの下世話な情報番組が流れていた。それを眺めながら、結局パンクが部屋のチャイムを鳴らす昼過ぎまで、ずっと飲んでいた。低いソファに身体を沈めながら。
無性に腹が立って仕方なかった。テレビの向こうの白い壁に、母親の顔がずっと見えていた。その母親は俺を失望させることばかり言う。俺は腹を立て手に掴んだティッシュの箱や、タオルをその顔に向かって何度も投げつけた。そのたびに俺を嘲笑った。
「どうしたの。顔が青いよ。」
昼頃、パンクが部屋に入ってきて言った。「飲んでるの?どうしたの、めずらしい」
「なんでもない」俺は言ったが、明らかに様子がおかしかったと思う。
パンクの背後にまた母親の顔が見えた。
「後ろ?何か見えるの?」
「なんでもない」
「体調良くないなら、映画はやめてここでご飯作って食べようよ」とパンクが言う。
俺は何も答えずテレビの前に座った。テレビでは芸能人が芸能人を電話で紹介してトーク番組に誘うくだらない企画をやっていた。毎日昼に新宿のスタジオから生放送している番組。
「アキラ。テレビの音、消えてる。」
テレビを見ている気になっていたが、実は音量がゼロになっていた。無音の部屋でテレビを見ている気になっていたらしい。
パンクは何かを察したようで、背負っていたリュックを床に置くと俺の横に駆け寄った。額に手を当てる。
「熱はない」
アキラ、服脱いで横になって。パンクにそう言われ、無理やりTシャツを脱がされた。ベッドの上にうつぶせになると、パンクが手のひらを俺の背中に当てた。とても熱い感覚があった。
「ものすごく冷えてるよ」
身体が死人のように冷たいと言った。
パンクは強張った背中の筋肉を細い指でマッサージしてくれた。強く押されるたびに後頭部にに圧がかかるような感覚があった。
「こんなに硬くなることってよくあるの?」パンクが言う。
「気にしたことないよ」
パンクは浴槽に熱いお湯を張り、俺を裸にして浴室に連れて行った。自分も裸になって一緒に浴槽に浸かった。大きいバスタブだったが、勢いよくお湯が溢れた。
「アキラ、あんた頑張ってる。」
そう言った。パンクの背中には小さな入れ墨があった。肩の後ろに、ほんの小さなスミレの花びらの模様の。
「頑張ってるって何を頑張ってるのか分からないな。」
「いつから調子悪いの。」
「今朝。客といるときから。」
「もっと前からきっと調子悪かったよ。」
浴槽の中でも、絶えず母親が俺を何か責め立てていた。あなたは迷惑なの、そう言っていた。産まなきゃよかったのに。
「何が見えてるの?」パンクが俺の顔の見て言う。私の顔を見えていなかったよ、と。
「少し眠ればきっと良くなる」
パンクはそう言った。風呂から上がり、Tシャツを着て2人、またベッドに入った。
きっと疲れているだけ。俺はそう思いながらいつの間にか眠ってしまった。途中何度も大きな声を出していたようだったが、パンクが声をかけてくれた。
「誰もいないし、何も起きていないよ」何度もそう言っていた。
目を覚ましたのは、22時を過ぎた頃。10時間近くも眠っていたらしい。少し体が楽になった気がした。
「今日は泊まっていくけど、いい?」パンクが言う。
「いいよ」
「ごはん作ったんだ。アキラが寝ている時にスーパーにも行ってきた。すっぴんで。」
パンクはハンバーグを作ってくれていた。大きなハンバーグが四つも。
「材料の分量が分からなくて、作りすぎたけど。」
「うまそうだね。料理こんなに上手なんだっけ?」
「親がいつも家にいなかったし、子供の頃からわりと作れるんだ」
「見かけによらないね」
それは俺は少し笑った。
「やっと笑った」
パンクがそう言う。
スーパーの隣の酒屋で安く買ってきたというハイネケンを何本か空けた。
「あの店の太ったおばちゃん、私のこと毛虫でも見るような目つきだったよ」
「耳にそんなにピアスがあるとね」
「味、どう?」
「美味いよ、とても」
「味覚はあるの?」
「舌が痺れてるけど、ハンバーグの味は分かる」
「よかった」
パンクは、ソースの味を濃くしてくれていた。本当は味覚が戻っているわけがなかったけれど、味を濃くして味覚を感じるようにしてくれていたんだろう。
「あの話を聞かせて」
パンクがそう言ってねだったのは、俺がまだ青森の田舎で高校生だったころ、窓の外で激しく降りしきる雪を見ていたという話。
雪が降ると、灰色の空と、雪が積もった家の屋根の境目が見えなくなるんだ。真っ白な世界になって、音もなく雪がいつまでも降り積もっていく。俺は大学受験が迫っていた。でも、3年間で勉強できたのは世界史の教科書3ページ分。3ページを何度も繰り返し読んでいただけ。数学は0点、生物は6点というありさま。大学受験なんて不可能だった。自宅の部屋から雪が降る景色をずっと眺めていた。
そんな話を夏の終わりの東京で、Tシャツ姿でハイネケンを飲みながらパンクに言う。
パンクはそんな光景の話が好きだった。
「いつか、その景色を見たいんだ」
「冬になったら連れていくよ」
その頃は、パンクと過ごす冬が来ないなんて想像もしていなかった。恋愛の終わりが忍び寄っている空気なんて、当時の俺には耐えられない想像だったから。
その日の夜中、パンクと2人で夜の街を散歩した。
マルボロを吸い込み、上を向いて煙を吐きながら、2人で近所の神社まで歩いた。朝のように寒気はもうしなくなっていた。
ジッポーライターを閉じる音が夜の住宅地に響いた。パンクがデニムのお尻のポケットにライターを突っ込む仕草が好きだった。オイルが焼ける匂いとその音は、タバコを吸わなくなってからも覚えている。
神社は小さな繁華街の中にあった。決して暗くはない夜の神社で、別に何か祈るわけでもなく、何かもったいぶった石碑に腰かけてもう一本だけ煙草を吸った。
ガキの頃、母親から電話がかかってくるのを毎日待っていたことを思い出していた。
もちろんそんなことはありえない。でも、ありえないことを信じて、お祈りをしていたんだ。何の神様だったかは分からないが、電話が鳴ることを待ち続けていた。それは今までずっと、鳴ることはなかった。
神社の向こうの暗闇で母親がこっちを見て嘲笑っていた。
「帰ろうか」とパンクに言った。
「もう少しお酒を買って帰ろう」
パンクが言うので、少し遠回りをしてコンビニに向かって歩いていった。
「冬になったら、雪を見に連れていくよ」
俺はまたそう言った。
パンクは返事をしないまま、黙っていた。