感じるを信じない女たち
13歳の時、俺は強迫性障害を発症した。
初めはゆっくりとした変化だった。自分が横書きで日記を書いていると、頭の中で声がした。
「お前の人生は右肩下がりだな」と。
俺は小学校の高学年まで九九を言えず漢字もほどんど書けなかった。人が読めるような作文を書けるようになったのは六年生にもなってからだった。
だから文字は下手くそで、横に文字を書いていくと必ず右下がりになってしまう。罫線に沿って書くなんて意識していなかったから仕方がない。文字を並べることで精いっぱいだった。
その右下がりの文字が、まるで自分の人生の転落を象徴しているような気持ちがわき上がってきた。
怖かった。ただでさえ地獄のような生い立ちなのに、ここからさらにひどい目に遭ってしまいには死ぬのかと思うと怖くなった。
だから右上がりにわざと文字を書く癖がついた。癖というより意識的に、だね。罫線を無視して、斜め上方向20度くらいの角度で書く。
明らかにおかしい。教師も真面目に書けと怒った。なぜ斜めに書くのかと。
しかし斜め上に書かなければ自分の人生が終わってしまうのだから仕方ない。
症状はどんどん進行していった。
ある日、また頭の中に誰かの声がした。「午前0時に鏡を見ると、お前は鏡の中に吸い込まれ戻ってこられなくなる」
それが異常に怖くなり、俺は家の中の鏡を毎晩集め、机の上に置き、教科書やノートを上に乗せて鏡を隠した。鏡が見えると俺は危ない。そう思い込んだ。
鏡を0時に見なければいいのであって、0時0分1秒ならいいのだと自分のルールを作った。
同時期に、教師が冗談で語ったオカルト話がある。
肉体と魂は一本の糸で繋がれていて、夜に眠ると魂が肉体を離れ凧のように彷徨っている、その時に悪魔が糸を切ったら朝目覚めることはなく死んでいる、と。
教師がどんな文脈で語ったのかは覚えていないが、軽い怪談だったんだろう。しかし俺はそれが強迫観念として大きくなってしまい、夜眠る時には必ず帽子を被っていた。肉体と魂を繋ぐ糸は頭頂部で繋がっていると信じたからだ。
強迫観念はどんどんエスカレートし、俺の生活を支配していった。俺の毎日は儀式とルールでがんじがらめになった。
(後に東京に出てきて夜の仕事を始めた時も、駅から自宅までの歩数を正確に測って歩くようになっていた。何歩目で、右足で、このマンホールの蓋を踏まなければならないと思い込んでいた。)
この症状の典型の「止まらない手洗い」もあった。手は2時間以上も洗っていたり。
アキラ師となった今も、服を着る時の儀式は細かくある。クルーネックのニットやスウェットは、左腕から通さなければならない。次に右。
そう、「右上がり」でなければならないからだ。13歳の時の儀式とルールは今も少しだけ続いている。
俺のこの症状の深刻さに気づいたのは、1人だけだった。ほかの女性は気づいていたとは思うが何かの冗談だと考えていたと思う。
強迫性障害のきっかけとなるのは「幼稚な不安感」だ。
ありえないことを信じて不安になる。
幼稚な不安感を払拭するために幼稚な儀式を繰り返す。払拭できないので血が出るほど手を洗うし、鍵をかけ忘れていないか確認する。
幼稚な儀式を繰り返したあとは、ひどい疲労感と徒労感と情けなさに打ちひしがれる。
後年、風俗嬢たちのボスとなったとき、強迫性障害を持つ子が予想以上に多いことに気づいた。
手を洗う女が沢山いるという意味ではない。強迫性障害と同じプロセスの感覚を持つ子が沢山いたということだ。
強迫行動は三つの特徴に集約されると思う。
・曖昧さを許さない
・感じるを信じない
・基準が崩壊している
不安を不安のままに、複雑さを複雑さのままに、理不尽さを理不尽のままに、屈辱を屈辱のままに、事実を事実のままに、誤解を誤解のままに、曖昧さを曖昧のままに棚の上に置くことができない。
鍵はしまってるよね、手は綺麗になったよね、これはオカルト話だよね、これは妄想だよね、こんな儀式には意味がないよね、と必ず「感じている」のに、その「感じているを信じない」
もう二時間も手を洗っているよと自分で考えている時、「二時間」を認識する「時間感覚」も崩壊している。グリニッジ標準時という人類が決めた基準を一切無視するようになる。二時間という時間が、自分にとっては何の意味も持たなくなる。
この「感じる」と「基準」が狂っていくプロセスを丁寧に踏んでしまう。
そうすると若い女の子は例外なく全員、衝動性の権家のように振る舞い始める。
なぜなのかはわからない。
衝動で風俗嬢をやってしまう。金に困っているわけでもないのに風俗をやりはじめる。自分でのこのこ歩いて面接にやってくる。
友達が怪訝な顔をするようなろくでもない彼氏と付き合う。彼の犯罪に加担する。麻薬や盗み、ツツモタセなどを一緒にやりはじめる。勢いで妊娠する。勢いで結婚する。子供を虐待して逮捕される。店でひどいクレーマーになって店員に殴られる。同じ事務所の特定の子に敵意を剥き出しにして喧嘩をする。
急ぐように、慌てるように、崩れていく地面から逃れるように、全力で走るように衝動的に生きる。その衝動性は止まらない。
もちろん全員が人生をうまくやれない。一つもいいことが起きない。
曖昧さを許せないから、言わなくてもいいことを言って彼氏に殴られたり、友達がいなくなったりする。
感じることを信じないから、一度彼氏や友達が嫌いになると自分が被害者だと思い込むようになる。
基準が崩壊するから、ルールや法律が守れなくなって自己破産をしたり逮捕されたりする。
結局友達がいなくなる。一人で生きづらそうに生きている。
彼女たちの崩壊のスタートは、「幼稚な不安感」だ。
俺が、脳と魂が糸で繋がっていると信じ怖くなったような、幼稚な不安感をまともに信じてしまうことが強迫的な衝動と崩壊に繋がっていく。
もしも・・・が枕詞につく幼稚な不安を抱えている。
もしもこのまま底辺な人生だったら
もしもこのまま風俗嬢のまま死んだら
もしも彼氏が浮気したら
もしも車を運転している時にきづかないうちに人を轢き殺していたら
もしも
もしも、もしも、もしも
もしもの話が衝動に繋がってしまう。このぶっ飛び方は健常者には理解できないだろう。
衝動と強迫性障害の儀式は別物のようでいて、根本のプロセスは同じ。
そんな風俗嬢に質問する。「おまえさ、中学生のとき、変な儀式とかあった?」
すると多かれ少なかれあると答えるんだよね。
強迫性障害によって手を洗いすぎるのは、それほど大変なことではない。いずれ止められる。
でもそれがオブセッションとなって形を変えた時、人生はバラバラになるまでスピードを上げていく錆びた衝動機関車になってしまう。