鼓膜が揺れるほど甘く③
前回までのお話し
4月末。弘前公園の桜が満開になる頃。
城の西濠で、五十石街と西の郭に架かる春陽橋の上から、桜を見ていた。夜の8時。満開の桜を見ようと大勢の人が橋を行き来しているなかで、桜色のスプリングコートを来た美しい女が景色を見てぱっと花が咲いたように笑顔になった。
女は20歳。新しい生活を始めたばかり。しかし毎日の仕事は最低だった。くだらない会社にくだらない上司に。長く苦しい就活の戦いは、ろくでもない会社に踏みにじられてしまっていた。
「気にするな。そこだけが会社じゃないよ。辞めてもう一度やり直せばいいさ」
俺は、なんとか励まそうとしていた。
たかが就職。人生の大問題にするのはもったいない。
俺は言う。
「人生って何になるかじゃなくて、どうあるかなんだよ。どこにいるかではなく、どうありたいか?だしね」
そう言いながら、濠のそばのベンチに座りながら屋台で買った甘いたこ焼きを爪楊枝で口に運んだ。
日が暮れていき、桜は春の闇の中でさらに浮かび上がった。濠を進む手漕ぎボートに乗った高校生カップルの笑い声がこちらまで響いている。
大丈夫、仕事なんてどうにでもなるさ。20歳。まだ20歳だよ。
・・・・・・
1990年代の終わり。
俺は劣等感を抱えて毎日生きていた。
その頃の俺には、見たこともないような大金が流れ込んでいた。無論、ポルノの仕事だ。どんなに稼いでもまともな世界の人が認めてくれるような商売ではない。
俺の本業はうだつの上がらなさに拍車がかかっていた。何をやっても全く上手くいかない。仕事をすればするほどお金がなくなる。
もうそろそろ限界だなと思っていた。本業はこのまま廃業するか、もう少し未練がましくしがみつくか。いずれにしてもこの状況は続かない。夜の商売で稼いだ金を費やしドブに捨てているだけだ。
俺はポルノの仕事を恥じていた。子供の頃の俺がしたかった仕事ではない。カッコいいスーツを着て、お堅い名刺を出して、他人から一目置かれるような立派な仕事で成功したい。ずっとそう思っていた。しかし俺にはその才能も人間性もないようだった。きっと頭が悪いのだ。
お金はあってもため息ばかり。そんな毎日だった。ポルノスターとして覚悟を決めて生きることはまだできなかった。
この頃、まだ17歳の高校生だった「なつき」と出会った。
なつきは夜の商売で働いてくれていたスタッフの妹で、事務所でBBQのイベントをした時に遊びに来てくれたのがきっかけで知り合った。
何に興味を持ったのか分からなかったが、その後、頻繁に事務所に遊びに来るようになり、次第に雑用のアルバイトとして居つくようになった。もちろん未成年者なのでポルノ関係の事務所でアルバイトをさせるわけにはいかない。うだつの上がらない本業の方の補助作業だった。
なつきは不思議な雰囲気を持つ子だった。当時の女子高校生といえば短いスカートとルーズソックスに黒いローファーみたいなファッションだ。みんな同じような格好をしていた。
でもなつきは違った。いつも不思議な空気を漂わせていた。ストレートの黒髪を腰まで伸ばし、肌が吸い込まれるように白く、瞳が大きかった。細く幼い体つきで。
制服のスカート丈を短くするわけでもなく、髪を巻くわけでもなく、ただ通学バッグに小さいウサギのぬいぐるみが一つ付いているだけ。作業を教えるとすぐに覚えていった。頭がいい子だった。
そろそろ20世紀が終わろうとしているこの時期、俺は17歳のなつきといた。なつきと俺と2人、お金が稼げない哀れな仕事をしていた。仕事も人生ももう一度整理しなきゃならない気がしていた俺は、少しだけなつきに癒されていた。
なつきは事務所だけではなく、いつも俺の家にも来た。家の門限が許す限りいた。ほぼ毎日。なつきは2歳年上の彼氏がいるという。彼氏と遊ばないのかと訊いても、遊ばないよと言う。会ってるのかと訊くと、会ってないと言う。彼氏なのかって訊くと、彼氏だよって言う。よく分からない。
その頃、俺はよくチリソースを作っていた。どんぶりいっぱいにしてみんなで取り分けて食べるのが好きだった。
ある時、俺の部屋で一緒にチリソースを食べているとなつきが言った。
「わたしね、未熟児で生まれたんだ。1230gだった。」
「ずいぶん小さいね」俺は少し驚いて答えた。
なつきは自分が生まれた時の光景を覚えているのだと、不思議なことを言った。
「隣の保育器には900gで生まれた子がいたよ。NICUといって、いつもカーテンが閉められて廊下から見えないようにしてるんだけど、毎晩7時になるとそのカーテンが10分だけ開くんだ。するとそこにいる赤ちゃんの親たちがガラス越しに面会に来るの。チューブに繋がれた小さく黄疸を起こした我が子を、愛おしそうに若い夫婦が眺めて笑顔でいるの。」
なつきはまるでそれを見ていたかのように言った。俺はその光景を思い浮かべていた。
「隣の保育器の900gの子はね、退院するまで一度も誰も面会に来なかったんだ。わたしの親は毎日来てくれてた。でもねある日、ガラス越しに私をみていたら、後ろを通りかかったおばあさんがこんなことを言ったの。「あんな子供いたら死にたくなるね」って。私の母親は後ろを振り向いて老婆を睨んだ。老婆に付き添っていたのは、その病棟に入院してる妊婦の孫でね、私の母親の顔に気付いて老婆を後ろから突っついたんだ。「ちょっと!」と小声で言った。そしたら老婆は、はっと気付いたみたいで、口を抑えたんだよ。」
チリソースを食べる手を止めた。
「その時の母親の顔を覚えてる。怒りと悲しさが両方入り混じった顔。きっと、小さく産んでしまった自分を責めていたのに、そんな無神経なババアがいたから」
なつきはグラスに注がれたコーラを飲んだ。
「アキラってさ、女性っぽい。私の母親に似てる」
「そんなことあまり言われないよ」
「アキラは繊細だけど、怒ってぷんぷんしてる時があって、それがほんと女みたいなんだ」
俺は、なつきの母親の心に乗り移ったような気がした。さぞかし腹が立っただろう、自分が情けなかっただろう、でもなつきを産んで嬉しかっただろう。
なつきがなぜ新生児の時の記憶があるのか、分からない。1230gの赤ん坊の脳が記憶できるものなのか。それともあとで親から聞いて学習した「記憶」なのか。
なつきは他にも不思議な力を持っていた。人の表情に「音階」を感じるという。駅に行き大勢の表情を見ると音楽が出来上がるのだと言った。しかもそれは「腐敗臭がするひどい音楽」だと言う。だから人混みにはなるべく行かないんだ、って。
俺の表情はどんな音楽が聞こえる?そう訊こうとして、俺は言葉を飲み込んだ。腐敗臭しかしないよな、たぶん。汚れ仕事をする才能しかない俺だから。
なつきは俺の顔を見ている。キラキラした透明な瞳と笑顔で。
「さてと、時間だよ。家まで送るよ。」
いつものようになつきを自宅まで車で送っていった。自宅の前まで行くと親に見つかって怒られるだろう、そう思って自宅の近所で降ろそうとするのだが、いつも玄関前まで送ってとなつきは言った。
「ありがとう!じゃあね!」元気よくなつきは言って車を降りていく。俺はそそくさと車を発進させて帰る。
その帰り道、信号待ちをしていると携帯が鳴った。なつきだった。
「アキラ、きっとね、わたしアキラと関わる仕事すると思うんだ」
「それは勧めないけどね。でも一緒にいられたらいいね。おやすみ」
そう俺は答え、電話を切った。なつきは言った。「明日、またね」
なつきが高校を卒業し大学に進学すると、自然と会わなくなった。
再び出会うのは大学を中退したあとのこと。再会したとき、多額の借金を抱えていた。悪い男に依存していたせいだ。それがあの、彼氏なのに会わないとなつきが言っていた男のことだった。実は既婚者だった。17歳の時から、なつきは既婚男に依存していた。
毎日家に来ていたあの頃、きっと俺は逃げ道だったのだろう。
そのあと、俺はなつきを風俗嬢にして一緒に仕事をすることになる。なつきは伝説的な風俗嬢となった。
そればかりではない。俺が一度おちぶれてホームレス状態となったとき、支えてくれたのはなつきだった。そしてなつきは会社経営者となったとき、2年だけ俺は従業員として働き給料を貰っていた。
・・・・・・
俺の誕生日。その日が俺の誕生日だと知っている人は、育ての母親だけだった。電話をかけてきて「誕生日おめでとうでとう」と言ってくれた。自分が産んだわけでもないのに、ありがたかった。
俺は未練がましく昼の商売をうまく行かせようと色々な人に会い商談していた。その夜は西新宿のホテルの喫茶店で2人のビジネスマンに会うことになっていた。
30分前からロビーのソファで座って待っていると、約束の10分前に二人連れが俺に近づいてきた。この人たちだろう。
男と女。男は45歳位の高級なスーツを着た男。名刺をもらう。
次に隣の女。グレーのスーツを着た上品そうな女。顔を見てハッと思った。
間違いない。去年この新宿のホテルで会った風俗嬢だった。福島から出てきた大学生で、卒業後は違う街に行きたいと言っていたあの風俗嬢。
当然、女は俺のことなど覚えていないだろう。
「しゃぶらせてみたい誰かを想像して私を見てください。」そう言ったあの嬢だ。
名刺を俺にくれた。
もちろん本名だろう。下の名前が「那月」だった。
そうか、なつき、か。
このスーツ姿の那月は、アメリカに留学経験のあるエリートだった。大学生とか福島県の生まれとか、全部キャラ設定だったというわけだ。そんな金に困らないようなエリートが安い風俗で働いているなんて、俺には別に驚くことではない。よくあることだ。
その商談は失敗に終わった。商売を一緒に進めることは破談になったが、那月が個人的に少しお話を聞かせてくださいと言った。俺の昼の商売のことについて悩んでいらっしゃるようなので、個人としてアドバイスできると思います、と言った。
俺が自分の風俗客だったなど、那月は絶対覚えてるわけがない。俺だけが一方的にこの那月の闇を知っているというわけだ。
面白い。会おう。3日後に会う約束をした。
会ったのはこのホテルの近く、西新宿にあったちょっと洒落たイタリアンの店だった。客がガヤガヤと騒がしい、気取らない店。
那月は約束の15分前には店に来て、俺を待ち構えていた。
【つづく】