1993年のカルティエ③
ホテルのベッドで眠りこけている間、また夢を見ていた。
夢の中で俺は夏の函館にいた。函館駅の改札口に母親が立って俺を見ている。それは見覚えのある険しい顔つきだった。俺を大声で叱責しようとしているに違いない。俺は駅のホームに踵を返し、札幌行きの特急列車に乗り込んでしまった。
でも俺は気づく。そうだ、エマを置いてきてしまった。次の駅ですぐに降りてホテルに電話をして、エマを迎えに行かなければならない。でも、次の駅に列車は停まらず、俺は焦り始める。
そこで激しく息を飲むように目を覚ました。胸が強く脈打っていた。
夢だと分かってもっと気持ち悪くなった。
窓の外は部屋に入った時よりも少し陽が暮れようとしていた。部屋が陰り始めている。
隣で寝ていると思っていたエマはそこにはいなかった。
ベッドから降りてバスルームを覗いてもエマはいない。しかし机の上にはエマのボストンバッグとサングラスが置かれたままだった。どこにいったのだろう、何かトラブルに巻き込まれていなければいいけどと思った。当時、俺といるだけで不要な揉め事に巻き込まれる可能性は大きかったから。
部屋の暖房は効きすぎていて汗ばむほどだった。窓を開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。汗が急に冷えて気持ちいい。
そのとき、ドアが開いてエマが入ってきた。
「どこに行ってたの」
「買い物してきたよ」
ホテルから歩いて3分くらいのところに地元のデパートのような店があって、そこで靴を買ってきたのだと言う。それは黒いロングブーツだった。
「とても似合うよ」そう言うとエマは喜んだ。「俺に言ったら買ってあげたのに」
「東京に帰ったらもっといい靴買って」エマが笑う。
ホテルの窓から函館山が見えた。
雪が積もっているけれど、函館山まで歩いていこうかということになった。
新しい靴に履き替えたエマとホテルを出ると、函館に着いた時よりも一段と冷え込んでいた。路面電車の駅を素通りし、函館山の方向へ向かって大きな通りを歩いて行った。
北海道の田舎町の雰囲気は俺が生まれた町とよく似ている。暗く、陰惨で、街に海からの冷たい風が抜けていく。
「アキラに言ってないことがあるんだよね」
買ったばかりのブーツで雪を踏みしめながら、エマが俺の腕に手をまわして言う。
「妊娠してるんだよ、わたし」
「そうなのか」
「わたしね、付き合ってる人がいるんだ」
「ふうん」
「でも奥さんがいるひと」
「ふん、その人の子供なのか」
「そう」
「誰なの」
「カフェでバイトしてたときの店長」
「どうすんの」
エマが言うには、その男には妊娠していることは告げていないという。子供は諦め男とは縁を切ろうと思ってる、と。わたし、ずっとアキラといたいから。
とりあえず俺にはそう言う。
「それでいいのか」
エマは少し無言になった。
「こういうこと聞いて怒らないの?」とエマは言う。
別にそれくらいのことで怒らないよ。と俺は言ったが、エマは私だったら怒ると思うと言った。「アキラに嘘をついていたから」
「すべてを知ることがいいとは思ってないよ」
「そうね」
俺は言った。
「その店長、エマが別れると言ったら気が狂うほど取り乱すよ」
「そうかな。結構な遊び人だよ。昔の武勇伝をたくさん聞いてる」
「嘘に決まってんだろ、そんなの」
「そうかなあ・・・」
エマの言葉尻には、不倫男と別れたくないというニュアンスがはっきりと見て取れる。不倫している独身女の「別れる」なんて言葉はどうせあてにならない。そう単純な思考をしていないのは知ってる。
俺が心配しているのは、その男に対して過剰に期待をし現実を歪ませているエマの心だった。身勝手な男は女を馬鹿にさせ、惨めにさせた挙句、激しく依存を強めていくものだ。
店長は31歳だと言う。本人が言うには、妻とはうまくいっていなく、離婚したいと思ってると。
「嘘だよそんなの。妻は妊娠していたりするから」
「そんなことないと思うよ、彼は本当に夫婦仲が悪いの」
しかし実際に妻に会ったわけでもないだろう。
「まあいいよ。忘れる。別れたら俺の女になれよ」
そう俺は言った。
「もちろんそのつもり」
エマが言う。
それから俺は努めて明るく振舞った。
二十間坂通りの坂道を登り、カトリック教会や正教会の建物を塀の外から眺めた。すでにあたりは暗くなってきていて、まだ函館山の麓からも、函館の夜景が次第に明るく見え始めていた。
ロープウェーの駅から山頂への登り、目の前に広がる夜景を見た。強い風が吹く展望台で、夜景を眺めるエマの横顔を俺は見ていた。満面の笑顔だった。
麓の駅に戻り、日が落ちてしまって暗い坂道を下っていった。山の麓の狭い路地裏に小さな喫茶店があって、まだ夕方だったので明かりが点いていた。
「夕食まで少しあるから一休みしよう」と俺が言った。
俺はなぜだか気持ちが沈んでいた。エマに嘘をつかれていたことが原因ではなく、エマが不憫で哀れに思えたからだ。俺は知っている。こういう女はいくら強がろうと惨めさしかない人生に落ちていくことを。
エマは男と別れるなんて言っているが、本当にそうだとしたら俺に言うはずがない。エマは男と絶対に切れない。切れるのは俺との関係の方だ。不幸になっていく女の濁流のようなスピードには、周囲の人間は追いつけないものだ。
喫茶店のメニューを見ていたら、風変わりな飲み物をみつけた。熱いコーヒーにラム酒と砂糖をまぜ、バターを乗せた飲み物らしい。ヨーロッパのどこかでそんな飲み物があるということを、客のおばさんに聞いたことがある。旦那と旅行に行ったどこかヨーロッパの街で飲んだという話だった。
外を歩いて冷たくなっていた体が一気に温まった。
その夜は、ホテルの近くにある居酒屋に入り、2人で他愛もない話をしながら食事をした。
「そんな男はクソだから別れろ」俺がそう言ったところで喧嘩になるだけだ。喧嘩をしても何も変わらない。
エマが言った。
「ホテルに戻ったら男に電話をして別れるよ。アキラはそれを横で聞いていて」
正直なところ面倒だなと思った。