【The Weekend】白い犬と空を飛ぶ日のこと
実際にそれは見えていた。
白い大きな犬。ピレネー犬のような真っ白い犬が眠っていると俺の前に現れた。
2月のある日。歌舞伎町のはずれにあるビジネスホテルの一室に俺は泊まっていた。その日の夜、近所の八百屋では白菜を盗んで逃げる老人を目撃した。相変わらずそんな街。
普通のホテルの部屋は建物の中にあるものだが、そのホテルは違った。エレベーターを降りると外から吹きっさらしの通路があり、その途中に部屋のドアがある。アパートのように。部屋に入ったのは夜遅くで、通路は不気味に薄暗かった。
部屋の中はひどく寒かった。集中管理の空調ではなく、エアコンをつけて温めるタイプの部屋のようだった。
遮光カーテンを開けてみると、隣のビルの壁が迫っていた。
そんな部屋に俺は泊まっていた。体調は怖くなるほど悪く、まともに歩くこともままならない状態。
俺は服を脱ぐこともできず、コートを脱いだだけでそのままベッドに入った。
ひどく身体が冷えていた。
眠りに落ちたのか、それとも幻覚を見ていたのかは分からない。目を閉じているのか開けているのかすら分からない。
突然、白い犬がベッドのわきにやってきた。はあはあ息をしている。犬の匂いもしたが、それは俺が子供の頃に飼っていた犬の匂いかもしれない。
犬がずっと俺のことを見つめている。真っ暗な部屋のはずなのだが、不思議と犬が白いのはよく分かる。懐かしいような、何かを思い出して泣きたくなるような、そんな可愛い顔をした犬だ。
そのうち、犬が俺に話しかけてきた。人間の言葉なのか、俺が犬の言葉を理解できるようになったのかは分からない。
何語かは分からないが、俺に言う。
「空を飛ぼう」と。
空?
オレについてきなよと犬は言う。きっと空を飛べるさ、と。
俺はきっと起き上ったんだと思う。気がついたらホテルの窓に頭をぶつけていた。犬はいなかった。もしかして、部屋の窓が引き戸で開けられるタイプだったら、俺は外に飛び出していたのかもしれない。
白い犬と一緒に。
エアコンをつけることも思いつかず、部屋は凍えるほど寒かった。
俺はまた服を着たまま、ベッドに潜り込んだ。
犬がまたやってきて、ずっとベッドのわきで俺を見つめている。今度は飛ぼうなんて言わなかった。ただ、ずっと俺を見て悲しそうな顔をする。
そんな顔をするなよ。俺はそう言った。
また来るよ。
そう犬は言ってどこかに消えた。
犬はそれから数か月の間、俺に付きまとった。
空を飛ぼうと何度も言うようになった。
ホテルの部屋、歩道橋の上、自宅の窓、あるゆる場所で俺に言った。
犬はその都度悲しい顔をする。そんな表情で俺を責め立てる。俺はそんな顔をするなよと言いながら、犬の言うことを聞こうとしていた。
白い犬は今でも時々俺のわきにやってくる。
なぜそんなに悲しそうな顔をするのか。
なぜそんなに訴えるような顔をするのか。
俺になぜ飛ぼうと言うのか。
どこに連れて行こうとしているのか。
俺は謝り続けている。白い犬に。何を謝っているのかは分からないが、そうしてほしい顔をしているので。
白い犬は俺がずっと抱えてきた衝動のことなのかもしれない。
俺が抱えてきた罪悪感のことなのかもしれない。
俺が助けられなかった命や、消えていった沢山の命に対する罪の意識なのかもしれない。
それが視覚になって現れる。
あれ以来、白い犬が現れる夜のために、温かい飲み物を枕元に置くようにしている。
落ち着くために、温かい紅茶をポットに入れて。