みんな違って、みんな良いわけじゃない(2020年)
「みんな違ってみんないい」という言葉は、金子みすゞの有名な詩の一節。
この詩の一節を勝手に抜き出して、最近流行りの多様性を語る人がいるので、聞いたことがある人もいるだろう。
自己啓発セミナー的な胡散臭い講演でもこの話題は響きやすいのかよく語られる。自己肯定感を持ちましょうという文脈の中で。
正直、胡散臭さがぷんぷん漂うなと思っていた。
だからこの詩をあらためて読んでみた。
こんな詩だ。
わたしと小鳥と鈴と
わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。
誤解がないように言うが、とてもいい詩だと思う。
とても文学的で、哲学的で、忘れていたものを気づかせてくれる。
でもこれを多様性や自己肯定感についての詩だと思うと、苦しいことになる。
例えば、俺のように生まれつきのアレで人並みのことがいまいちできない人間からすると、みんな違ってみんないい、なんて嘘だろと思う。
金子みすゞの詩では、わたし、鳥、鈴、という全く別な存在について対比している。そこには共通するものが何もない。
あるとしたら、「音を出す」という行為だけ。
わたしは歌う
鳥は鳴く
鈴は鳴る
それだけの共通点。
だからわたしはわたしで負けてないよっていう感傷を語ってるんだよね。
これが、同じ種類の存在であれば話は少し違ってくる。
同種の中では明確に序列があるのだ。
鳥は弱いものは食べられてしまう。
弱い鳥が死に、強い鳥が生きる。
環境に順応できる能力がある鳥が生き延び、順応できない鳥は死ぬ。
鈴にしても、人間が作る物であり、その性能や品質で値段に差がついてしまう。同じ鳴るという性能をとっても優劣がはっきりしてしまう。
つまり同じ種類の存在の間には「普通」という平均値が存在する。普通ラインから上と下が存在する。
人間だって同じだよね。
そこでは必ずしもみんな違ってみんないいわけじゃない。
普通より下の人間には、居場所を与えられてはいない。
繰り返すけど、居場所がないのだ。
俺と猫との関係性だったら、俺は猫にならなくていいし、猫は俺にならなくてもいい。
でも俺が会社員だったとしたら、同期のA君や先輩のBさんとの間で違っていいことはあまり多くない。違っていいのは顔つきや服の色、ランチに食べているものくらいだ。
障害を持って生まれ、人よりも能力の低い人達は、みんな違って自分もいいとは感じない。同じ種類の存在の間では、平均値よりも上の人間だけがみんなちがっていいと言えるのだから。
持っているお金、持っている人間関係、持っているバックグラウンド、持っている社会的地位、持っている能力、持って生まれた家庭環境。
当然のように人間はみんな違う。
苦しい環境で生きる者、恵まれた環境で生きる者、それぞれはっきりと違う。違って良くはない。
恵まれない者たちは、誰かと違って「劣っていても」いい、とは思えない。普通になりたい、当たり前になりたい、そう思うはずだ。
そもそも多様性という言葉にさえ、胡散臭いものを感じるよ、俺は。
もし、本当に多様性というものがあり、みんなちがっていいという状態があるのだとしたら、
それは「強者にも弱者にも役割がたくさん用意できる場所」があればいいねという理想のことだよね。
能力の違いや優劣によって自分が持つ役割と居場所があり、それによって待遇やお金に差がない社会がもしあるのだとしたら、文字通り多様性かもしれない。
みんな違っていいんだから。
高学歴の優秀な人間が集まる外資系企業の中で、誰かがゲイであることをカミングアウトし、周りが受け入れるというのは別に多様性ではないよ。威張れることでもない。恵まれた上流の人たちのお仲間の中では、お優しい思いやりがあるというだけ。
もしスラムでゲイをカミングアウトしたら、言いたくはないがひどいことになる。違っていて良くはないのだ。
弱者はいつも場違いなところでコソコソ生きている。居場所がある強者が唱えるものが多様性であって、居場所がない弱者にはいじめっ子が唱える理想の社会でしかない。
自分の居場所を必死になって探すことこそが大切だと思う。
それは人生における戦い。戦争みたいなもの。
自分の尊厳を保てる場所を、泣きながらでも探し続けよう。居場所がなければ、人と違って良くはないんだ。
多様性なんていう強者の論理を信じたらいけない。その多様性は、底辺にいる者たちをさらに追いつめていく。
裕福な人間たちが唱える多様性という言葉と、裕福な家の少女が地球温暖化を批判する光景と、俺は似ていると思うんだよね。