【名曲分析】横須賀ストーリー

《横須賀ストーリー》、1976年(昭和51年)6月にリリースされた山口百恵の13枚目のシングルであり、百恵最大のヒット曲である。この記事では、《横須賀ストーリー》の音楽分析を通して、その魅力に迫る。

1. 和声と楽曲の構造

まず、和声的なところから大まかな構造からみていこう。この曲は実に単純な構造をとっている。3つの部分からなる。それぞれをA、B、Cとして以下、説明していく。

まず、「A」の部分であるが、「街の灯り」で始まる17小節間である。語り掛けるように短いフレーズが連なる。この17小節は前半12小節(4小節×3)と後半5小節に分けることができる。

前半12小節は4小節のフレーズが3度繰り返されることで成立する。その4小節はG♯7×2小節とC♯m×2小節にさらに分けることができる。ドミナント(属和音)にあたるG♯7からトニック(主和音)であるC♯m移り行く非常に単純な、「ちゃんと解決する」カデンツがそこにある。

後半5小節はサブドミナントにあたるF♯mで始まり、C♯m→ドッペルドミナント(属調属和音)D♯7→ドミナントG♯7→C♯mというカデンツで幕を閉じ、印象的なシンコペーションを経て「B」パートにつながる。

B」パートは「これっきり」の連呼を伴う8小節間である。

F♯m7→B7→E→G♯7で構成される4小節を2度繰り返す単純な構造である。しかし、この「B」パートは一度も主和音C♯mが登場しないまま終わる。これがこの曲を紐解く重要なカギとなる。

C」パートは「急な坂道」で始まる9小節である。

「A」パート後半に近い和声進行で始まり、付点とタイを伴う強拍移動が印象的なC♯m→B→A→Bという進行上で繰り広げられ、G♯7→D♯7→G♯7→C♯mで終結する。

上記を踏まえて全体の構造を見ると、前奏(4小節)→B→間奏①(2小節)→A→B→C→間奏②(9小節)→A→B→C→間奏③(1小節)→A→B→C→後奏(4小節)という形になる。前奏・間奏・後奏を除いてみると、B→A→B→C→A→B→C→A→B→Cという非常にわかりやすい構造となっている。なお、前奏と間奏①は非常に密接した関係にあるため「前奏→B→間奏①」を一つの塊とみることもできる。後奏は間奏②を半分に圧縮した形をとっている。間奏③はわずか1小節であるが、印象的なピアノの音(グリッサンド)で三度現れるAパートを引き出すことに成功している(もし、間奏③も長いものであったら、聴衆は飽きてしまっただろう)。

2. 歌詞の構造と内容

次はここに歌詞の要素を含めて考えていこう。

A」パートはこの歌の登場人物を紹介し、その立ち位置を示している。和声的には前半12小節+後半5小節となっていたが、歌詞では「あなた」の描写8小節+「わたし」の描写7小節という構造だ。「あなた」の描写はG♯7→C♯mという単純な和声進行に乗っているが、「わたし」が見た「あなた」という確定的な状況を示すにあたり、この「ちゃんと解決する」カデンツが背景におかれているのは興味深い。和声が動く「わたし」の描写、さらには「B」パートとの対比といえる。当然、音楽的に「A」メロは、どの楽曲でも基本的に複雑なことはしないことが多い(サビやその直前を引き立てるため)ので必然的な結果ともいえるだろう。しかし結果的に「あなた」と「わたし」を見事に対比させることに成功している。

もう少し細かく見ていくと、1番では「あなた」の中に見知らぬ人の影を感じながらも「あなた」についていく「わたし」が、2番ではまるで「わたし」に興味がないかのように「アクビ」をする「あなた」とその「あなた」に(おそらく)不満を募らせている「わたし」が、3番ではどこか心ここにあらずである「あなた」に問いたいと思う「わたし」がいる。「あなた」は浮気をしているのだろうか。「わたし」にまるで興味がないようにふるまうあなたと過ごせるのは「もう、これっきりなのですか」と問う「わたし」、どこかはっきりしない「あなた」にじれったさを感じている「わたし」がそこにいる。

B」はそんな「わたし」が「あなた」に「これっきりですか」と問いかける。しかし、答えは返ってきていない。一向に解決しない「わたし」の思い、はっきりしない態度の「あなた」が、和声進行でも表現されている。前述の「主和音がない」という点である。主和音がないということは(音楽的な)解決をしていないといえる。「あなた」に対して「答えのない」問いかけを何度も行う「わたし」はっきりした態度をとらない「あなた」が音楽的にも描写されているといえる。

さらに、この「B」パートが冒頭にあることにより、聴取者は「答えのない問い」「あなた」に対して「答えのない」問いかけを何度も行う「わたし」をまず耳にする。しかもその直前の前奏4小節は、半音と特徴的な3+3+2のリズムをふくむ3小節の大きなクレッシェンドとこちらも解決しない和声によるシンコペーションによっており、その「B」パートの印象を一層際立たせる。「これっきり」とは誰に対してなのか、何がこれっきりなのか、聴取者に疑問を抱かせ、その後の歌詞の「ポイント」を強烈なインパクトとともに聴取者に知らせる役割を果たす。前奏からこの冒頭の「B」パートはとてつもなく重要なのである。このインパクト絶大の冒頭がなければ、この曲はここまでヒットしていないかもしれない

そしてこの「B」パートはアレンジ上ほとんど改変なく繰り返される。「いつまでたっても答えが返ってこない」状況、「いつまでもはっきりしないあなた」を暗示させるかのようにである。

もうひとつ。「もう」という言葉が出てくる。ただ「これっきり」と繰り返すのではなく2度のこれっきりの後、「もう これっきりですか」と阿木燿子は書いた。当然「これっきりですか」という言葉を強調することに役立っているが、音楽的にも「もう」がはいることでリズムが整う。シンコペーションで「これっきり」を表現した後、「もう」でいったん着地させて(「う」がちょうど1拍目にあたる)、改めて「これっきりですか」と問う。ここまで計算しているのか否かは定かではないが、「もう」があるだけで印象は全く異なってくるだろう。

C」パートは横須賀の描写を含ませながら、「わたし」を描写するが、3度繰り返す「C」でも1,2回目と3回目は語尾が異なる。1,2回目は問いかけ(~でしょうか)であるが、3度目は推測(~でしょう)なのだ。わずか1文字の違いであるが、この違いは天と地ほどに大きい違いだ。1度目では坂が多い横須賀において、2度目では海の街である横須賀で、それぞれおそらく二人で訪れたのであろう「記憶」が垣間見える。そして、3度目は「答えが返ってこない、はっきりしないあなた」と今日も過ごすであろう「わたし」の姿が見える。「過去」と「現在」の描きわけでもあるのだ。

そして曲は、これから「あなた」と「わたし」はどうなっていくのか、聴衆に「未来」の想像の余地を与えた状態で曲を閉じていく。

この横須賀「ストーリー」は主人公「わたし」が「あなた」との関係を問いかけ、思い出し、見つめなおし、さらに問いかけることで進む。最後どうなっていくのかは描かない。「歌は3分間のドラマ」とはよく言ったもので、ごく短い時間の中に物語をギュッと凝縮していく。ゆえに、多くを「描けない」わけだが、むしろ多くをあえて「描かない」ことで聴取者に想像力を掻き立て、引き込んでいく。阿木燿子氏はこの描写があまりにも鮮やかである。

そしてその詞につけられた旋律は語るかの如く(特に「これっきり」のリズム処理)流麗に流れる。細かなリズムを使う「B」パートとそうでないほかの部分という対比も見られる。宇崎氏の旋律付けは実に見事である(さすが夫婦といったところか)。

3. アレンジ

次にアレンジに関して。名編曲家である萩田光雄氏のこのアレンジはとても面白い。ソロをとるサクソフォン、エレキギター、オルガンのサウンドはこの曲の印象を決めるのに大きな役割を果たしただろう。特にオルガンのサウンドはかなり目立つ。さらに、要所要所でのストリングスやコーラスによるハーモニーはサウンドの奥行がぐっと拡げる役割を果たしている。以下、いくつか挙げてみる。

まず「A」パートの書き分け。1番と3番ではサクソフォンとエレキギターによるオブリガート(エレキは1番と3番で変わってくるが、プレイヤーのアドリブだろう)が入るが、2番ではそこがオルガンになっている。この音の変化は単純な繰り返しの構造を持つこの曲では聴衆を飽きさせない重要なポイントとなる。

ストリングスに関しては、じつは「A」パートと「C」パートの前半ではほとんど鳴っていない(歌謡曲で時折みられる、背景に薄くハーモニーということもない)。逆に言うとそれ以外はかなり活躍している。コーラスは「A」パート後半と「C」パート後半で登場する。ストリングスやコーラスが入る場所は、この楽曲においてメッセージ性が強かったり、「わたし」の描写で重要なことが歌われていることが多い。

地味なところであるが「B」パートにのみシェイカー(と思われる)が入って16分音符を刻む。メインのパーカッションがドラムセットだけのこの楽曲(同じ萩田氏の編曲である《プレイバックPART2》では多数の打楽器が入るのだ)でこのシェイカーはきらりと光るアクセントとなっている。

前述したが、間奏③の処理も見事である。間奏②がサクソフォンのソロであるのに対して、間奏③はピアノのグリッサンドのみ。「じれったさ」を募らせる「わたし」の心理を描写したかのようでもある。

4. まとめ

ここまで、構造的な部分、歌詞、アレンジとみてきた。見事にかみ合っている、ということがおわかりいただけただろうか。とりわけ昭和ポップスは詞、曲、編曲が分業でそれぞれが最高のものを生み出そうと努力する。それが完全にかみ合い、さらにプロモーションやタイミングがはまった時、想像を超える「名作」が生まれる。

山口百恵にとって、「横須賀ストーリー」は転換期の1曲である。山口百恵はデビューSG「としごろ 人に目覚める14才」から8枚目のAL「17才のテーマ」まで年齢を追っていくような演出がなされていた。これは酒井正利氏による「年齢追い」のプロデュースである(南沙織が前例)。それが落ち着き「少女」から「大人の女性」に変化する時期にあたる。AL「17才のテーマ」(1976年4月)で百恵はすでに阿木・宇崎作品を歌っているが、その候補曲の中に《横須賀ストーリー》があった。それを酒井氏はあえてこの13枚目(1976年6月)のために温存していた。百恵自身が宇崎作品を歌いたいという思いがあったというのは有名な話であるが、プロデュース側の演出の「切り替え」のタイミングにちょうどよくはまっていたのはいうまでもない。

山口百恵という「アイドル歌手」は《横須賀ストーリー》から「表現者」としての道を突き進んでいく。さらなる表現を求め、多方面へ進んでいく。



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