「あかるい生活」/「(We Don't Need to be)Said Something」
不安や恐れは時として暗がりから生まれる。母校の文化祭では部屋の照明を落とすことが禁じられていて、結果として文化祭然とした展示企画のいくつかは封じられている。だからあの空間に叫声が響くことはない。
名を失ったのちの世界はどれほどの闇に包まれているのだろうと思う。想像すればそれ以上に恐ろしいことはなくて、ボクの精神が自同律にどれほどの快を覚えているのかが明瞭に分かる。書き連ねるさなかにあって、名を失わないこと。生よりも大事なものとして名を抱えれば、最近は幾分か精神の骨格が不定になっているから、その最悪の未来から逃れる策が口から漏れては誰かに心配されることが続いている。謝罪はしない。
ふつふつと湧く感情を押し留めては、ボクにとっての不快はときどき肉体に向かうのだなと、気付き。最近自作品の哲学が少しずつ編まれていて、特に短歌では身体への不快と、雄大な身体としての星への羨望があらわになりがち。こんなにも水分質な肉体にあって、体に海がないのが悲しい。体内をそよぐ風はない。だから、名を失った暗がりに、ことばを無視される今の延長を歩むくらいなら、いっそのこと──
闇は絶望を呼ぶけれど、でも「あかるさ」は希望の発露ではないと思う。諦念ののちの曇り空は随分と白くて、茫漠とした明度で世界を見ることを強制される。それは歓喜の渦を起こさない。あかるさはあくまでものの輪郭を確かにするばかりで、救済されるわけじゃない。毎日を包むあかるさは残酷なほど普遍的で、それだけで救いになることなんてない。そんなことあってたまるか。求めてもいない。
昨晩の優勝が告げられた瞬間は夜にあった。川沿いを埋め尽くす賛美の歌声と楽しそうな叫び。ボクは今の在り方を肯定したいがために、かのように希望が闇のすぐそばにあることを信じずにはいられない。
「あかるい生活」は某賞応募作。6句目が選者秀逸十句に選ばれて、「(We Don't Need to be)Said Something」は卒業制作の表題作としてボクを副総代にしてくれた。だけれど、それがなんだ。彼らの掲げるあかるい未来にボクは呼ばれていない。ならば、あの夜の街のごとくに、煌々と照らされた暗がりの既を寿いで謳おう。ボクのための希望の街へ大きく名を掲げ続ける。我がためでもなく、誰がためでもなく、光に共鳴する鐘楼としての名が、ことばを呼び続け、喜んでボクは依代になる。
あかるい生活
(We Don't Need to be)Said Something
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