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はじめに(丸物の歴史)

2007年(平成19年)2月28日、京都駅烏丸口にあった近鉄百貨店京都店、通称「プラッツ近鉄」が閉鎖されました。あれからちょうど15年が経つ今、この店と前身の「丸物(まるぶつ)」の記録を後世に残そうとこのnoteを書き始めました。出典不明、不順同などあると思いますが、お許しください。

※当ページ及び作者は株式会社近鉄百貨店、近鉄グループホールディングス株式会社ほか各企業とは一切関係ありません。

丸物前史

 近鉄百貨店の前身、「丸物(まるぶつ)」。その起こりは京都の商人、中林家の商売です。江戸時代末期、当主の中林仁兵衛が酒や醤油の製造、藍玉問屋として高い業績を上げました。しかし、輸入染料の時代が到達したため、呉服商「枡屋」に転換。次代の中林捨次郎が雑貨なども扱うようになります。

丸物豆知識

 さらに捨次郎の長男・中林仁一郎が親族とともに新たなビジネスを考えるもいったん断念。「枡屋」が京都駅前の特産品展示・販売場「名産館」に出品していたのをきっかけに、弟・谷政二郎とともに東本願寺に所有地を貸してくれるよう懇願します。この努力の甲斐あって、1920年(大正9年)元日、土産物店「京都物産館(きょうとぶっさんかん)」が開業しました。現在の京都ヨドバシ南東のカフェ「デリフランス」付近です。翌月には個人商店からの転換を図り、「合名会社京都物産館」を設立しています。

 「枡屋」の沿革は丸物や後身各社の有価証券報告書にも記載はありません。この1920年に開業した店と設立された企業こそが「丸物」であり、その設立者・中林仁一郎こそが創業者ともいえます。

※上記部分の資料は「京都市学区大観」(そのうちの会社、商店、組合篇P55-56)。合名会社設立の時期については上記資料は誤りであるため、有価証券報告書および近鉄百貨店の「会社概要・沿革」より。

 現京都ヨドバシの北半分の土地も東本願寺から借り、1926年(大正15年)10月には鉄筋コンクリート造の百貨店がこの部分にできます。旧館は「九銭コーナー」として生活雑貨を扱い、大手百貨店・髙島屋が烏丸通向かいに開いた「十銭ストア(テンセンストア)」と競合しました。また、1929年(昭和4年)12月1日には西陣京極に分店を開設、翌1930年(昭和5年)4月29日には岐阜市に出張所を設け、続いて6月1日には正式な岐阜支店を開きます。名市長・松尾国松による誘致を受けたものです。1932年(昭和7年)10月1日には豊橋にあった土産物店「物産館」も買収し、東海地方への進出を進めていきました。

 当初は京都市の市章の丸い部分に「京都物産館」の「物」を入れたマークを採用していましたが、角が取れて、下写真のようなマークに変わります。

丸物ロゴスモール

 このマークを指して「まるぶつ」と呼ぶようになり、1931年(昭和6年)9月21日には「合名会社丸物」に社名変更しました。続いて、1934年(昭和9年)9月28日には株式会社設立総会を都ホテル(蹴上)で開き、「株式会社丸物」になりました。10月1日には株式会社としての営業がスタートし、株式会社丸物の創業記念日となっています。

 このとき、奇しくも都ホテルと同じ近鉄グループに入るとはだれも気付いていないでしょう。なお、奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)についても電車を利用した移動百貨店、丸物店内への電車案内所設置などの関係があったそうです。

 以降、1937年6月には谷政二郎が浜松に百貨店「松菱」を開き、2年後には中林仁一郎自身も「三星(みつぼし、のち「十一屋」合併で「丸栄」)」を名古屋・栄に開き、別の名前を名乗る店が現れます。戦後、1949年(昭和24年)には大阪・京都・名古屋の各証券取引所に上場しました。1950年(昭和25年)12月に豊橋支店を分社化したのをきっかけに別会社方式での展開を図ります。のちに丸物と縁の深い「そごう」が多用するやり方ですが、元祖は丸物ではないでしょうか。

 戦前は東京の麹町や上海にも出張所を出していましたが、本格的な百貨店は開けませんでした。ところが、1954年(昭和29年)4月には新宿三丁目に「新宿丸物」を開設し、なんと帝都・東京へ進出。1957年(昭和32年)12月には国鉄池袋駅ビルに「東京丸物」を開業し、「松菱」「丸栄」とあわせ、東京・京都・北九州に東海地方各地へ展開する百貨店ネットワークが完成しました。

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▲大垣支店(1946~1955)。舞鶴支店(1947~1950)とともに短期間で閉鎖されたが、なぜか「ブリタニカ国際大百科事典」にその存在を残す。

1960年、創業者の中林仁一郎が亡くなり、続いて、経営難の「そごう」に社長として派遣していた坂内義雄も亡くなったので、一気に社内は混乱に陥ります。

1962年(昭和37年)には大阪の伊藤忠商事との提携を行うも失敗してしまいました。しかし、1966年(昭和41年)4月、近鉄幹部として今も有名な故・佐伯勇氏の指示により、近畿日本鉄道(近鉄)が伊藤忠の株式を引き受けることになりました。以後も、1975年(昭和50年)には「ひらかた丸物」を開業し、1977年(昭和52年)の「京都近鉄百貨店」への改称、1997年(平成9年)9月3日の「草津近鉄百貨店」オープンなど、「株式会社近鉄百貨店(1972年、近鉄から分社化)」とは別々の道を歩みます。「京都近鉄百貨店」改称後も以前からの客には「まるぶつ」のまま親しまれました。

※上記は京都近鉄百貨店『株式会社設立五十周年記念社内誌』より。


2001年(平成13年)2月28日に合併が行われました。しかし、以上の沿革の一部は「株式会社近鉄百貨店」の歴史として記録されています。これは機会を改めてまた説明したいと思います。


丸物関連会社(2001年合併前)

2001年に京都近鉄百貨店と近鉄百貨店が合併する前にあった関連企業をまとめます。この中で「近創」が丸物、「Kサポート」がプラッツ近鉄の歴史を、それぞれ今に伝えています。「近創」は枡屋興産家具部を発祥としており、「Kサポート」は https://www.platz-kks.co.jp/ というURLに「プラッツ」の名残を残しているのです。

丸物京都本店1953

丸物京都本店(1953年)

(京都近鉄百貨店京都店→近鉄百貨店京都店「プラッツ近鉄」)

丸物岐阜支店(1953年5月新株発行目論見書より)

丸物岐阜支店

(京都近鉄百貨店岐阜店、通称「岐阜近鉄百貨店」)


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丸物大垣支店

(1953年、再掲)

「名鉄サルビア」や「大垣市守屋多々志美術館」の前身であり、「ヤナゲン」の南側にあるとても小さい店でした。

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近鉄百貨店草津店

(草津近鉄百貨店→中部近鉄百貨店草津店)

 はじめから「近鉄百貨店」の今のロゴを掲げているものの、「丸物」改め「京都近鉄百貨店」主導で出店しています。近鉄沿線でもない草津に立地するのは京都店・岐阜店の空白域を埋めるためでした。丸物の系譜にありながら、近鉄百貨店として今も残る唯一の店です。


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※近鉄百貨店草津店は筆者撮影、ほかは古いので著作権の切れた写真です。

※有価証券報告書などを分析しても不明な点が多数あります。ほかに「びわこショッピングセンター」などの会社もありました。

※新情報などが入り次第、表は更新します。

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