宇多田ヒカルの「Deep river」に潜む不条理と輪廻転生

私は「宇多田ヒカルのDeep riverに潜む無常観」という題で前回の記事を記した。今回は、上記の通り「不条理」「輪廻転生」のテーマを、遠藤周作氏「深い河」の解題を基に考察する。「輪廻転生」については前回で少し触れた。この解題についてのモデルは、「深い河」の主人公の一人である「磯部」のストーリーから引用されている。そこで、考察する前提として、彼の境遇を照らし合わせ、その上で歌詞と照合させることを試みよう。

「磯部」は妻を癌で亡くし、老年期に差し掛かった男である。それまで彼は、その世代ではごく普通であった父権的な家庭人だった。感情表現に乏しく、家庭での会話は短説であった。私の受けた印象は「ステレオタイプな昭和の父親」を喚起させた。癌で亡くした妻は、夫に従順であり、当時はごく普通の不平不満を漏らさず夫に尽くす女性だった。しかし、妻は臨終の間際のうわ言で、「自分が輪廻転生し、この世界のどこかに必ず生まれ変わる」と遺言を残して旅立った。「輪廻転生」などと非科学的な事柄は信用しない性の磯部であったが、知り合いの伝でアメリカの研究者を訪れた折に、「日本人の生まれ変わり」を自称する少女の存在を知る。理性では信用していない磯部であったが、妻の最期のうわ言に誘われ、とあるインドツアーに参加する。果たして彼は、「日本人の生まれ変わり」を自称する少女に対面できるのだろうか・・・?。と磯部のプロットは大まかに要約が可能だ。上記の通り「深い河」には「輪廻転生」の解題が織り込まれていることが理解できる。

勿論、「輪廻転生」以外にも「深い河」には沢山の社会的なメッセージ性が含まれている。例を挙げると、日本は古来から汎神論を主体とした国であり、人々は「神」「宗教的な戒律」とはあまり縁の無い生活を送る。それに対して、ヨーロッパ的な宗教観は、日本とは対比的な「唯一神」であり、教義をもって、他の宗教と融和はしない。そのような「日本的宗教観」「西洋的宗教観」の対立を、前回の記事で解題とした「ガンジス川」を和解の象徴として仲介を試みている。それについての詩的表現を試みた歌詞も「Deep river」には存在すると私は鑑みたが、それはこの記事の最後に引用するとしよう。さて、本題の輪廻転生についてだが、ここで歌詞を引用したい。

「何度も姿を変えて、私の前に舞い降りたあなたを、今日は探してる」

もはや、説明するまでも無いであろうが、この一説は「死別した妻を苦心の末、探し求める磯部」を象徴しているのではないだろうか。それに、「何度も姿を変えて」とあるので、現在を軸として「無限の過去」から「無限の未来」へと彷徨い合いながら、お互いを探し求めて遡っていく。そんな情景が連想させられた。二人がいつか邂逅する日は来るのだろうか?。答えは、ガンジス川のみが知っている。



さて、次はDeep riverに含まれる「不条理」について、歌詞と小説を照らし合わせて、私なりの見解を述べさせて頂きたい。結論から述べると、私が「不条理」を感じる歌詞は、以下の部分である。

「いくつもの河を流れ、わけも聞かずに、与えられた名前とともに、全てを受け入れるなんて、しなくていいよ」

「いくつもの河を流れ」は、前回も論じたように「河」→「人生」の詩的表現であると私は解釈した。つまり、「いくつもの河を流れ」→「いくつもの人生を生きた」と推察しておこう。その後に、歌詞はこう続く。

「私たちの痛みが今、飛び立った」

「痛み」とは何であろうか。私は「何も知らないまま、勝手にこの世界に産み落とされた」意味を想像してしまう。つまり、「不条理」の比喩ではないかと私は感じる。「不条理」とはカミュやキェルケゴールなど、実存主義的な哲学者が長きに渡って、議論を重ねた問題である。哲学に関しては、全くの門外漢である私が、哲学思想を引用して解説する論述をお許し頂きたい。フランスの哲学者であるアルベール・カミュは「不条理」を克服する方法を三通り提示した。「Deep river」で宇多田ヒカルが作詞した、以下の歌詞は、カミュが「不条理を克服する方法」として提示した「不条理を認識し、受け入れる」ための唯一の思想の前段階に当たると感じるのは、私の誤認だろうか。

「時は流れを変えて、何も持たずに、与えられた名前とともに、全てを受け入れるなんて、しなくていいよ」

カミュは「不条理を受け入れる」ことで、世界が「客観的な意味」を持たないことに気がつくと同時に、世界を「主観的な意味」で捉える転換が可能だとした。「受け入れる」「受け入れない」と矛盾しているように聞こえるが、カミュの「受け入れる」は私の境遇の「不条理」さを優しく受け入れるのであって、その前段階に「受け入れられない」感情が存在して、初めて可能になるのだと思う。「不条理」を認識して初めて、個々が客観性を追い求めず、主観的に自分の自由な解釈で、幸福を追い求めることができるのであると、カミュは主張した。上記の歌詞は抽象的で、私が論じた「不条理」は単なるこじつけでしかないかも知れない。ただ、私はこの「Deep river」にそれほど大きな意味を感じるのである。


新型コロナウイルスの拡大により、数々の不毛な生産性のない批判の応酬が続く最中に、今まで「当たり前」だと勘違いしていた数々の物事が逆転する。この「残酷な世界」で「不条理」を認識して、生きることもたったひとつの糧に繋がるのではないだろうか。「相互理解を深めて自分の正当性を主張する」のではなく、「反対する意見を貶める」ことで正当性を主張する、社会の分断を招きかねない手合いが横行する今日、この歌詞を引用して締めくくろう。

「剣と剣が、ぶつかり合う音を、知るために託された剣じゃないよ。そんな矛盾で誰を守れるの」














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