宇多田ヒカルの「Deep river」に潜む無常観。
「Deep river」は2002年にリリースされた、宇多田ヒカルの3rdアルバムであり、彼女を代表する名盤である。「traveling」や「光」などの至宝の名曲が散りばめられており、何度リピートしても飽きることはない。彼女の作品を解説する題目でこの記事を書こうと試みるが、私は作曲や編曲などの音楽的理論には疎いため、音楽理論的な解説は控えたいと思う。しかし、「歌詞」という文学的な点に着目すれば、浅学な私でも多少の見解を発表する点に置いては許されるのではないだろうか。
そこで、私が述べる歌詞は四番目のプレイリストの「Deep river」である。言うまでもないが、「Deep river」という歌詞を翻訳すると「深い河」となる。「深い河」は小説家の遠藤周作氏が晩年に発表した長編小説のタイトルであり、「Deep river」はそれを英訳して引用したのであろう。
さて、彼女の作品の見解を述べるからには、モデルとなった小説の解題を前提として論じなければなりますまい。「深い河」の物語としての単純な構図は、「戦後40年ほど経過した現代の日本で、五人の主人公がそれぞれの人生の意義・償い・赦しを求めてインドへの旅行を決意し、ツアーへ参加する。ガンジス川の持つ聖なる力は、五人の持つそれぞれの業を優しく包み込む。五人はその容易には癒され得ない償いや、人生の意義を模索していたが、偉大なガンジス川により人生の何かを感じることができた。」と要約できる。
そして、この作品の真髄をなす解題は「キリスト教的唯一神論と日本的汎神論の矛盾の融和点、和解点の探求」である。しかし、その融和点や和解点についての文中の記述まで読み解こうと試みるならば、宇多田ヒカルの解説どころでは無くなってしまうため中略しよう。それに、宇多田ヒカル自身がこの解題について、それほどDeep riverに投影したとは思えない。つまり、宇多田ヒカルはDeep riverに引用するに置いて、この解題よりも「ガンジス川の持つ無常観」に重点を置いたのではないだろうか。歌詞を引用すると、
「線と線を結ぶ二人、やがてみんな海にたどり着き、一つになるから強くないけれど」
とある。「ガンジス川の無常観をDeep riverに投影した」と前述したが、その詩的表現を汲み取るには、この歌詞を単なる直接的な表現ではなく、「海」や「河」を無常観のメタファーとして紐解くことが重要である。それを前提として、Deep riverの歌詞では、
「人生→「線・河」「無常観・輪廻転生」→「海」が作品に置いて重要な詩的表現ではありますまいか。「線と線を結ぶ二人」は「すれ違う二つの人生」、「やがてみんな海に辿り着き、ひとつになるから、強くないけれど」は「死・輪廻転生を通した無常観」とするのが良い解釈ではないかと思う。
先ほども論じたが、「深い河」の作中で、「無常観」の象徴は「ガンジス川」である。「ガンジス川」はインドの文化・風土に置いて様々な信仰の聖地である。死者を川側で火葬に付し、灰を川に流すことは死者に対する最大の敬意とされている。そのようなガンジスにとって重要なのは、土着的なヒンズー教に限らない。あらゆる宗教・生い立ち・人間の持つ複雑な人生すべてを平等に包み、流し込む。その様な聖なる川にとって、如何なる煩悩・快楽が意味を成すのであろうか。そのような思想を包括して、「無常観」と言うのであろう。それを、前述した「人生」→「線・河」「無常観・輪廻転生」→「海」と詩的表現に置き換えて宇多田ヒカルは表現したのだろう。それが、私の述べたい一つの結論である。さて、先ほど「海」の詩的表現に置いて、「輪廻転生」も一つの例として挙げたが、それについての解題を包括した歌詞も「Deep river」には存在すると私は感じる。次章では、その歌詞についての私なりの解釈も論じてゆこう。
スマートフォンで僅か半日で書いたため、少々文体が拙く、文章の量もやや少ないかもしれない。今回が初めてのnote投稿な為、お許し願いたい。
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