手放すという愛
カウンセラーさんやカウンセラー志望の方々のために授業や教育分析をしている時によくある話。
ずばり「知り合いのクライアントさんを一人くらい紹介して下さいよ。」という旨のことを言われると困る。そうまで直接的でなくとも「あーあー、知名度が無いからお客さんが全然来ないなー。ほんとに来ないなー。どうしたら良いですかね?」で始まる人もいるのだけど、結局そういう話になる。(もちろん知名度で来るわけではありませんが。特に私なんぞは無名です。)
依頼人さんはカウンセラーを自分で選ぶもので、その第一関門に干渉するというのは、とても妙なことだと思った。
しかし、大半の生徒さんやカウンセラーさんがそれ以前に手に職を持っている方だったので、例えば小物屋さんをやっていらっしゃるとか、エステティシャンだとか、リフレクソロジーやってますってな方だったら紹介しやすいと思って、言われるがままにご紹介した例が幾つかある。
が、その方々は紹介先の人たちのクライアントさんになるには繋がらなかった。
というのも、小物を選んだり、エステやマッサージやりながら「なんか悩み事はないですか?」というのも落ち着かない話だし、それどころか、幾人かの人たちがこちらにカウンセリングに再来した際に「身体や肌を批判されて傷ついた。」と苦情を投げつけて来られた。
そ、そりは、ご紹介して申し訳ないことです。
何故そんなことが起こるのか?と言うと、そのセラピストさんたちに悪気があるわけではなく「あなたのここが不完全だから、ここがダメだから絶対うちに通った方が良いよ。」という、言葉にハッキリださずとも出てしまう親切心らしい。ええ、元々は。
例え他の業種だったとしても、それをやっちまう方々というのは、永遠にそれを繰り返す。何故なら何かに悩む人は不完全でダメな人で、自分はそれを直す人だと思いたいから。
例えば、うつ病というテーマひとつにしても、何かが悪いからうつ病になるのだと決めつけている。
そして何故その思い込みに囚われてしまうのか?というと、それは強い投影で、自分自身もそんな時代があって今は抜け出したんですよ、どうです?凄いでしょ?と確認したいから。あるいは、ただただ自分の話をしたいという無意識が暴れているだけの人。
カウンセリング中にカウンセラーが自分の話をする”自己開示”という意識的に行う手法もあるのだけど、無意識にあふれ出ちゃう暴力とは全く別物だったりする。
私も教育分析をやって貰う先生を探して色んな人にあたったけど、このタイプにあたる確率は結構高くて、中には時間になっても帰して貰えず「泊まっていかない?」とまで言われたり。← ほんと怖かったわ。
が、実は私も若かりし頃はメサイアコンプレックスの気が強くあった。
人の痛みや苦しみがあたかも自分のものかのような気がして急いで取り除いであげたくなるという思いあがりに支配されていた。
自分が思うような手順で相手が癒されてくれると良いと思い込んでいた時期があった。
けれども、カウンセリングは相手の課題を奪う作業ではない。自分を癒し切れていない人の自己実現に使う道具でも決してない。
”理想”という名のクッキーの型のようなものに相手を無理やりはめようとすると、はみ出した手や足や心が切れる。まあ、この暴力は逆にクライアントさんや生徒さん側から向けられることもしょっちゅうですが、プロなら知っているからよけられる。
それでも、穏やかで優しい判で押したような笑顔の人は、鋭い思い込みのクッキー型を振りかざして「どうしてはまりに来ない?こんなに経験豊富なのに。ほら、色んな型を持っているよ!見て!」とさまようのだけど、そりゃちょっとでも勘が良い人は逃げるんですよ。痛いし怖いからね。
そして時々はまってくれる人が出現すると執着して離さない。
「私が直してあげないと。大変なことになる。」
いいえ。大丈夫。
放してあげて。
その人は別の誰かのところで、必ず答えを見つけ幸せになる。
自分もOK。他人もOK。
100%は思えないかも知れないけれど、少なくともある程度そこに辿り着いていない人、もしくは辿り着こうともしないで他人ばかり見ている人は、やるべきではない仕事かも知れない。