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『あっちへ行きなさい』の分岐点

人間というのは誰しも少なからずコンプレックスを持っている。それをオープンにしようがしまいがその人の勝手。

基本的にそれだけなら無害なはずなのだけど、そのコンプレックスを自らが認めていない人のストロークは、ちょっときつい。

例えば自分は賢いでしょ?とか、私、綺麗でしょ?という自己顕示欲を押し付けて来られたとする。
こちらにとってそれが『ほんとだ。頭良いよねー。』とか『本当に何て綺麗な人なんだ!』と思う場合はこちらにとっての正解。
素直にそれを口にしてしまう方だ。

ところが歪んだコンプレックス、つまりは自認していないそれを持つ人の場合は、それだけでは満足しない。
自分を一旦褒めてくれた人のことを、ずっと観測し続ける。『本当なのか?本当にそう思っているのか?』と。

例えば『私のこと、好き?』と訊かれてその人のことを好きならば『好き』と答えるのだけど『いや、ほんとは嫌いなんでしょ?』と100階くらい言われればほんとに嫌いになる。この人は嫌われなければ落ち着かないのだろう。それを証明しようとしているのだろうなあ・・・と思いつつもその願いを叶えてしまうことになる。

ある人は『私のことを馬鹿にしてるでしょ?』と言う。というより、自分のことを馬鹿にしている人を探しているかのようだ。『見下してる。』『本当は嫌いなんだ。』『本当は妬んでいるんだ。』等、疑念が後を絶たないらしい。
誰も愛していない人だなあと思う由縁は、それに付き合わされる相手のこと、周囲のことを微塵も思いやれないところだろう。

いつも他者との比較でしか物事を喜んだり嘆いたりすら出来ない。幸せを比べることしか出来ない。
もとい、それは思いやりがないからだ。

もういい加減、良いかなあ~と思う。

重大なコンプレックスと歪んだストローク。拒否する権利はある。

不思議なことに、この手の人たちは何年経っても時間が止まっていて、何年経っても同じことを言い続けている。

もう先に進もう。

誰の言葉だったか。

『あっちへ行きなさい。そして、こっちへ行きなさい。放してあげなさい。その人は他の人のところで幸せになるから。』

親子も家族も友人同士も同僚も、ありとあらゆる関係の人々が、誰一人として殺し合う必要もないし、傷つけ合う権利もないということ。

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