デヴィット・アッテンボロー(生命の彩り)
漫画や小説を読むか、もしくは映画や動画を観るか。どちらも楽しい。
それは良いのだけど、私の場合、せっかくの隙間時間を、何もしないで過ごすということがあまりない。下手すると、出来れば、お風呂の中でも何か読みたい。(結婚したり、パートナーと一緒に暮らすと中々これも出来ないが。)これ、若い頃からの病的な症状でもある。でも、楽しいんだよね。
もちろん、寝転がって夜のひと時に、ゆっくり観るのも好きだが、お風呂から上がって顔を保湿している間や、出勤前にメイクしている時間にも何かしら映画か動画を流している。
最近では、とうとう、Netfilixでも観るものが枯渇しちゃって、動物もののドキュメントに移行している。
それも観尽くしてしまって、さて、どうしよう?と思っていた頃、”デヴィット・アッテンボローの生命の彩り”というのに辿り着いた。まあ、動物ドキュメントの延長みたいなものだけど。
しかし、これは面白い。
人間の目には虹の七色が見えるが、動物や昆虫には、もっと違う色が見えているという話。
それを利用して、生き物は、擬態したり、捕食したり、騙したり騙されたりしているわけだ。
私は、人間より動物の方が見えている色の数が少ないと思い込んでいたが、実は違っていた。
例えば、シマウマの模様が天敵である肉食獣の距離感を鈍らせる。ほんの数秒間騙せれば、チーターからも逃げることが出来る。生存のチャンスが増える。そして、天敵は肉食獣だけではなくて病原菌を運ぶ膨大な量のハエたちでもあるのだが、他の単色の動物たちには気持ち悪いほどハエがたかっているのに、シマウマにはあまり寄って来ない。
ハエの見えている世界にすらシマウマの目くらましは有効であり、その身体に、どう着地して良いのか分からなくなるほどだとか。
こういった例が数多く描かれているドキュメントなのだが、問題は、いったいどうして動物たちがその方法を選んだのか?思いついたのか?いったいどれほどの時を経てその身体になったのか?という謎。
延々と続くDNAの連鎖の中で、きっと何千年もかかったのだろう?と知った風なことを心の中で思ったが、いやいや、トカゲやホッキョクギツネや、とある海の魚や、花の中に隠れ住むクモは、ほんのわずかの間に身体の色が変わる。これはいったいどういうことなのだろう?
人間に見えている世界だけでも充分な謎に満ちているというのに、この世界に、もっと多くの見えていない色があるのだとしたら。
毎回、この手のものを観る度に思うのは、いったいどうやって撮影したんだろう?ということなのだが、番組の中ではカメラマンにもインタビューしている。第3話くらいのシーンだったと思う。
それは、単に仕掛けを問う場面なのか?と思いきや、思わぬ名言が隠れている。
カメラマンは言う。
謎は謎のままで、いい。
何でもない一言だ。でも、深い。
知ろう知ろうとする探求心は素晴らしい。けれども、全てを自分の理屈の中に収めようとするのが人間の悪い癖でもある。七色しか見えていないくせに、全てを分かろうとする。ええ、七色しか見えていないことを知らないからこそ。しかし、一方で、それがまた人間の面白いところでもある。
あたかも最高の知恵を持ったかのように擬態したり生殖したりする動植物たちのように。凄く優れているけれど、凄く滑稽なところが面白いのだろう。
カメラマンは付け加えていた。
『謎は謎のままで、いい。次世代へ引き継ぐ。』
と。
動植物は、己の弱さを知ったとき、天敵を知る。でも、黙って食われたり死んだりはしない。あらゆる手段で勝負をしかける。
その手段のほとんどがカラーとスタイルだ。擬態する。
どの生き物も健康で強いものほど美しい。
強いものほど鮮やかなのだ。強いものが美しいのだ。
が、しかし、自分の弱さを知っているからこその擬態する能力。それも動植物や人間の強さの一つなのかも知れない。
弱いは強い。一番強いは、一番弱い。
”ありのまま”なんて概念を持つのは人間だけだ。
それでも考える。ありのままって何だろね?って。
それは、擬態してようが、何だろうが、今この時、生きているこの時、無意識にでも生きようとしてる今が、ありのままなのだろう。
世界は、カラーとスタイルに溢れている。
そして、その一部に私たちも居る。