在りし日のタガメ
昨日、定刻を過ぎた夜に、さっさと帰り支度を始めていると「ごめん!まだ終わらない!」と医務課に飛び込んで来たKちゃんの声。
何か大変なことが起こったわけではない。彼女の業務もあとはご利用者さんが夕飯の時に使ったカップを洗って、フロア中のテーブルを拭いて、記録を書けば終了する。
が、彼女はPMSだった。下を向くと眩暈がする。吐き気がする。
テーブルは私が拭きますよ。
「助かります!」
とんでもない。今日も一日お疲れさまです。胸糞悪いことも沢山ある中退職届を書いて、さらにはPMSなんて。ほんと、しんどいですよね。
そんなわけでテーブルにアルコールを噴霧して片っ端から拭いて行く。飲み物に入っているトロミ剤がなかなか取れないので、力を入れてゴシゴシ。でも、綺麗になって行くのは気持ち良い。
フロアにポツンと一人残って、テレビを観ているお爺さんがいるのだが、この方は皆が居室に帰った後も一人でテレビを観ている。
最初はテレビで何が放送されているのかさえ興味を持っていなかったのだが、「見つけました!ほら!」とか言う音量が響き渡る度、何かのクライマックスシーンになる度に、そのお爺さんが私の方を見る。
無言なんだけど、「観た?観た?」という表情でこちらを見るのである。
私はと言うと職業病で、その人の方向を観ていなくても患者さんや高齢者の一挙一動が視界に入る。どんな気持ちでこちらを見ているのか、今こちらを見て、何かしら共感を求めているなあとか。
なので、彼がこちらをバッ!と見る度に「はい。」とか「うんうん。」と言いつつ一緒にテレビの画面に顔を向け「へー。何だろうね。」とか「この人は何探してるんだろうね?」などと一言答えては、またテーブル拭きに視線を戻す。
しかし、それが何度も続くので、とうとう手は止めないままで彼が見ている番組を一緒に観ることになったのだが。
それは香川照之さんがカマキリの恰好をして、栃木県にタガメを探しに来ている様相らしい。噂には聞いていたカマキリ先生の授業である。
栃木県とは言え、今やタガメを探し当てるのは至難の業なのではないか?と思うのだが、見事探し当て、しかも、そのタガメが小さなカエルをぐわしっ!と捕まえて食事をしようとするところが映し出された。
お爺さんがバッ!と私の方を振り返る。
凄いね!捕まえたんだね!タガメを見つけるだけじゃなくて捕食シーンも撮っているんだね。
そう言うと、お爺さんはまた安心したかのようにテレビを方を向き直る。そしてまた次の衝撃シーンで、バっ!とまたこちらを振り返るので、私も「見てる!見てる!凄いね!」と答える。
それを何回繰り返したんだろうか。
とうとうこちらの方から「タガメなんて懐かしいね。」とお爺さんに話しかけたのだが、「え?」と言われた。
・・・・。あれ?タガメ、知らなかった?
「見たこともない。こんなのどこに居るんだ?」
よくよく考えたら、彼はとある財閥の一族の一人。東京生まれ東京育ち。
「川や田んぼで遊んだことなんてないよ。」とのこと。
思わぬ突き放し&うっちゃり。テーブルを拭いている手が止まってしまった。
「他にはどんな生き物が居たんだ?」と訊かれ、気が付けば私は、気持ち悪いほど沢山いたカエルの話や、ゲンゴロウや、アメリカザリガニ、ジャンボタニシが大量発生して、あれは非常に困りました等、生き物の話をし、求められてイラストまで描き、しまいには「何か捕まえて来てくれよ。」などと言われていた。
あ~。それ名案だなあ。メダカ程度なら施設で飼い始めて好評だったのだけど、そういった生き物好きの方々のために色んなものを大事に飼育しても良かったよなあ。水族館みたいに断面が見える川の模型みたいなものでも作って。
そうすると、このお爺さんが「あ。ごめん。大丈夫だよ。ボケているからすぐ忘れるから。気にしないで。大変でしょ?」と言う。
企業が国への建前のために作る書類作成や研修などは山ほどやって来てそれに追われていた。無駄な会議も沢山あった。
でもこういったことが出来ていなかったなあと思う。もっと一人一人の沿った何か。
気を使ってくれるお爺ちゃんと手を握り合う頃、Kちゃんが「ありがとうー!助かった!」と戻って来たので、しばし3人で香川照之さん扮するカマキリ先生の番組に見入っていた夕刻だった。