名も知らぬあなたが理解されずとも頑張ったように
世の中は甘いものではなく、自分が言っていることは正論だと分かってはいるものの、それが通用するものではないということも分かっている。
でも、言わずにはいられない。
で、患者全員、つまりはうちの利用者さんも同様に大事にして貰いたい・・・ということを言い続ける。
大事にって何?ということが理解して貰えないので、いちいち言う。
例えばお看取り同意書に『積極的な治療はしない』と若かりしの本人がそう書いていたとしても、それは不治の病の末期も末期になってからのこと。
その途中で肺炎になったら、きちんと抗生剤を使って欲しい。酸素も必要ならばして欲しい。何もしないことがお看取りではないのだということ。
と、そんなことは聞き入れられないのだと、どこかで思っていたが、これがそうでもないらしい。
施設の仕事をしていると最近はしばしば提携病院から呼ばれる。もう話すことは何もないよーっという状態なのだが、行ってみる会議。それは本当に徐々に徐々にゆっくりではあるが、『この間のお話の続きなんだけど・・・』と本部長や看護部長やオブザーバーや理事長までもが耳を傾けてくれている。きちんと蒸し返してくれている。
あきらめかけている私に向かって、以前に撒いた種の芽を差し出して来る。
相談役やオブザーバーと名のつく人が『それを全医師に配るから、また書面にしてくれる?』と言うのだが、いかんなあ、ここで切れてしまう。
『もう、何回も書きましたわ。で、赤ペン先生くらってまた書き直して出してるでしょ?これ以上の文字起こしはそちらでしてよ。』と言ってしまう。
感じて欲しいのだ。
もう何度も言ったり書いたりしているもので、最後はそうなる。前の文章はどこへやった?と。
そんな悪い態度の私にも真剣に向き合ってくれているのを今日感じた。
経営があるのは分かるのだが、患者さん(利用者さん)の命に対して優しくすると、絶対に経営は安定するぞ。ぞんざいに扱われて人は離れて行くのだ。
そんな言葉を、そんな気持ちを少しづつ取り合ってくれているのが分かった。
それでも、もっと分かって欲しい・・・と思う私がいる。
ある方のお母さまのお話を幾度となくこのnoteで目にして来た。それを読む度、今の時代はまだまだ恵まれている、感謝しなくては・・・と思う。時々、それを読んで泣く。戦火で腕や足が飛んで、それを必死で追いかけたかも知れない。阿鼻叫喚の光景の中、救おうと必死の看護だったのだろう。誰も褒めてはくれやしなくても。
ただ、最近思うのだ。
何故、ここを治療してくれない?何故、大事にしてくれない?それを訴えて、最初のうちは逆ギレされて、まるで戦火のようだと。
しかし、その燃え盛る怒りが自分にぶつけられるのが、段々消えて来て、火の粉と思える程度になって来た。
必要のない入院を遮断して誰かを迎えに行く。
気が付けば自分が寝込んでいたり、でも、寝込める時代は幸せだ。
何がどうと言うわけじゃない。ゆっくりやってみよう。そして、全く何を言っているの?こいつ!と思っていたお偉い方々が段々真剣な目でこちらを見てくれるようになった今に感謝しよう。
明日も、なるべく多くの高齢者の方が美味しくご飯を食べて、どこも痛まず、大声で笑って、ぐっすり眠れますように。
それは遥か昔。でも、確かに実在していた人。
名も知らぬあなたが理解されずとも頑張ったように、私も私なりに頑張りたいのです。