犬も食わない日の綱引き
ある日、恋人と喧嘩をした。
それは何の悪気もない一言だったのだけど、私を酷くみじめな気持ちにさせた。心理学的に言うと、私が恋人の言葉を使って傷つくことを選んだとも言える。
他の誰かに言われたならば笑い飛ばせるのに、人の関係というのは不思議なものだ。
怒りというのは、スピードが速い悲しみのことなので、私はその夜、そのまま撃沈した。悲しくなってそのまま絶望に甘えて眠った。
大人になるということは変な現象でもある。絶望していたはずなのに普通に仕事が出来てしまう。長く続くのかは分からないのだが、少なくとも切り替えられるようになる。
働くということは人のために何かをすることであり、それは同時に自分を立たせ歩かせることでもあるからか。
それはさておき、もっと頭に来たのは翌日の夜。
いつものように仲睦まじい距離感で簡単に詫びられた時だった。
前の晩は相手もふてくされて決裂したが、翌日、口は謝罪しながらも、何事もなかったかのような距離感で向かって来た時、どっかーん!と来た。
その時、「なめんなよ。」とハッキリ思った。同時に、どうしてこんなにも頭に来るのかな?と考えた。
先方としても、”どうしても説明して欲しい”と言うので考えてみたというのが正解かも知れない。それまでは全然冷静になれなかったから。
すると、この感覚が何かに似ていると気が付いた。
あくまで言葉の世界であって、実際に暴力をふるわれたわけではなかったが、実際に傷ついた。なので、心理的にはあたかもDV男やアル中の亭主が「殴って悪かったよう。謝っているじゃないかぁ。」と言ってきているような感覚に陥った。
実際にDV男と付き合ったわけでもないしアル中と結婚したわけでもないが、長年カウンセリングをやって来た際、しょっちゅうエピソードに登場したタイプの人々を思い出してしまった。
いや、激しい暴力ではないにせよ、ゆっくりと実際に経験して来たことかも知れない。
それはどこにでも、誰にでも起こり得る。
親しさの延長戦上にある気安さを超えた無礼というものが。
それで一番いけないのは、相手と一緒に居るために傷ついた瞬間の気持ちを抑圧すること。
我慢をすると相手もエスカレートして行く。
関係性とは、一本の紐の両端を握っているような状態のこと。
綱引きをしている片方が離さない限り、DVもいじめもなくならない。
それどころか、「やってもいいですよ。」と非言語的に伝えていることになる。
意思表示しないというのは、そういうことなのだ。
よく、その意思表示の欠如について、”何年も耐えて来た”と威張る人々(主に女性)がいるのだが、少しは責任がある。嫌なことは嫌だと言わなければならないのだ。
そこまで説明したあと「何か違いますか?例えが飛躍し過ぎだと思う?とにかく私は、ああいうの、嫌です。」と答えた。
すると「違わない。ほんとだ。」と返って来た。「そういうつもりはなかったけど、そういうことになっている。急いで仲直りしようとし過ぎた。」と、この夜のことについても詫びてくれたので、一旦は終結。
しかし、これだけ長く話していると、途中で色々と思い当たることがあった。逆パターンのことを自分も言ったりやったりしてるやないかい!ということ。
途中で気が付いて目が泳いだし、相手も気が付いていると思うのだが、責めたりしないでいてくれた。
責められないと余計に良心の呵責が起きたので「そう言えば私も。。。」と言おうとしたのだが、手のひらでストップ!とジャスチャーされた。
「それはまた別の話。謝罪するときは、きちんと謝罪したいので、今はその話はなし!」と怒られた。
一連のことを話していて思ったことは、そんなつもりはなかったということもあり得る。(言葉にすると、ものすごーくあたりまえのことだけど。)もしかしたら、そんなことばかりなのかも知れない。
でも、言ってあげないと相手もずっと同じことを繰り返してしまうということ。本当はそんなこと言いたくもないし、やりたくもないことだったかも知れないのだから。
良い関係も悪い関係も、一人では成り立たない。