彼の仕事は治すこと
高名で優秀な医師でも、お年を召してくれば例外なく加齢による問題に見舞われる。
初めて勤め始めた施設で、ナース陣がその先生のご状態を詳しく私に話してくれていた。
あらかじめ話しておかないと、来る往診日の下準備の手順が異常に多いことの説明がつかないからだろう。知っておかないと「何でこんなことまでするの?」と私でなくても突っ込む人がいるだろう。
特に一人の看護師がしきりに『まったく、あんなボケた先生のせいで!』と言う。『早く引退してくれれば良いのに。』と。
あまりにも前情報が多すぎると、どんな人が来るのだろう?と不安に思ったのだが、その人が現れたとき、『あ、この先生、大丈夫。』と思った。一目見てそう思う理由はうまく口では説明できない。ものすごく簡略すると、色んな人を見て来たからと言うべきか。
そして診療が始まってみると、案の定、センス抜群。外科だと聴いていたのだけど、内科的なこと、特に内分泌系に関することに詳しい。
専門外の病気の場合は、隣接している病院の医師(多分ご自身の後輩たちなのだろう)に、ささーっと依頼状を書いてくれて変に抱え込んだりもしない。
それどころか、他の若い医師の処方間違いや、診療の甘さを『なんだ、これ、いい加減だな。』と舌打ちしてすぐに対処してくれる。
私は新人なので外回りを請け負って先生の話に耳を傾けていたが、医師に直接ついているナースがしばしば舐めた態度を取っている。
例の、職場で宗教の勧誘に熱を入れている変なナースだ。
先生は時折日付が分からなくなったり、同じことを二度書いたりすることがある。それをいちいち大袈裟に「違います!」と興奮気味で指摘してはドヤ顔になっている。
多分認知症だと聞いただけで、自分の方が上だと思っているらしい。しかし、このナースさんは勉強をして来ていないので”医師”の部分の先生が『いや、だから。この数字だったのに、どうして放っておいたの?前回の検査結果はどこ?』と訊かれても「知りません!」と答えているので後ろでずっこけていた私。
先生は高齢であり、それによる多少の弊害を被っているものの、馬鹿ではない。なので、このナースが検査結果など観ていないことや、例え観たとしても、その意味が分からないことを見破って絡んでいる。
しかし、ナースの態度、全身のオーラが『なんだよ、ぼけてるくせに』という非言語の怒りで満ちている。
進まないな、これ。
と言うわけで、しゃしゃり出て行かなけれならないのが私。何やってんだよ、おまえ!と思うのは、もちろんこのナースの方にである。
結局先生は笑って許してくれる。『すみませんね。前回の検査伝票はここに貼ってあります。比較すると良くなっています。ありがとうございます。』と後ろから口と手を挟むと「いやあ、そうか、そうか。良かった、良かった。」と顔をくしゃくしゃにして笑う。患者思いなのだ。
例のナースが、終了したハードカバーのカルテを私にドンと音がするほどの勢いで突き付けて来る。『引っ込んでろ!』ということなんだろうけど、あんたのせいで引っ込んでられないんだよ。分かれよ。
しかも後日談がある。往診が終了して処方箋を薬局に出したあと、内容についての問い合わせの電話が5本、6本とかかってくることがあるのだが。
電話を取る度に彼女が『Ohzaさん、ちょっと何言われてんのかわかんないから電話代わって!』と言う。全ての電話をだ。まだここに来て間もない派遣だというのに、仕方がないので薬局からの質問に答える。『○○さんのその薬は屯用です。別包にして10回分でお願いします。眠れない日にだけ使うからです。』などなど。
どうしてこの人は、医師の真横についていて内容を理解していないのだろうか?と驚愕する。本当は彼女のポジションの人がそれを医師に報告して書いて貰うのが処方箋なのに。
ただ、医師が書いた後のカルテをどんどん後ろの私に渡すだけの運送係のようなことをしている。しかもそれが早ければ良いと思って異常に慌てている。
薬局や医事課からの質問に答え終わって電話を切ったあと、彼女が言った。
『まったく。あの先生、早く引退して欲しいわ。』
耳タコのそのセリフを聴いて、思わず、ぽろっと言ってしまった。
あのね。A先生だから笑って許してくれているけど、他の先生だったら、あなたは相当怒られるよ。下手するとクビ。
何も分かっていないということは、これまでの経緯で嫌と言うほどわかっていたが、自分のスーパー勘違いを大棚にあげて、相も変わらず医師に不遜な言動と心構えをしているので、ちょっとそれだけは言っておいた。現に某病院の先生陣から「頼むからもう、あの看護師、外来によこさないで。」とまで言われている。
そのクレームについて本人に言うのは私の役目ではないので正社員の先輩に託したが。
先生は、診療前中後にも友人から電話がかかって来る。
『体は大丈夫か?』と『ちゃんと約束の今日に施設にいるか?』等。
到着して診療を始めてしまえば問題ないことを知っている御友人たちだ。
先生は人望が厚い。
勉強もせず、ただ威張りたがり、逆ギレしている人よりは、遥かに豊かな人生を歩んでいるし、それが診療のセンスに出ている。
少なくとも、『この人には分からないだろう。』と誤魔化すことばかり考えては、心根の醜さがバレているという彼女よりは、何十倍も豊かな人生だ。その豊かさと優しさで患者が元気になる。
先入観で人を見て勝手にマウント取っている人よりは、余程幸多く幸せな人生であることに間違いない。
俗にいう『認知症』が問題なのではない。認知症のレッテルを貼られている人なんかより、よっぽど大ボケな人間が自称健常者の中に沢山存在する。
かくして大ボケ野郎で職場に文句ばかり言っている私も大いに気を付けなかればならない。