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タイプロ5次審査を見て、迷子になった私。
はじめに、私はtimeleszのファンでも、事務所のファンでもない。
ただのこのプロジェクトを楽しむ、いち視聴者であることを記しておく。
あるとき「timelesz project(タイプロ)」をたまたま観てその魅力にハマり、リアルタイムで配信を楽しみにしてきた。
候補生たちの努力や成長を見届けるたびに、このオーディションには何か特別な意味があると信じていたし、最終的に彼らが報われる未来を期待していた。
でも5次審査の結果を見たとき、どうしても納得できない気持ちが残った。
それは、単なる推しの脱落へのショックではなく、このプロジェクトそのものへの疑問だった。
「仲間探し」なのか、「オーディション」なのか。
努力すれば報われる、はずだった。
タイプロの審査基準は「自分たちに合うタイプかどうか」「タイムレスのことを深く理解しているか」という、いわば 「仲間探し」 の視点だった。
でも、それならなぜここまで厳しいレッスンを課したのだろう?
私は毎回の配信を楽しみに見ていた。
ボロボロになりながら必死にレッスンを受ける候補生たちの姿は、確かに「アイドルを目指す物語」だった。
彼らは未経験でも、経験者でも、努力すれば必ず何かを掴めると信じて頑張っていた。
だからこそ、5次審査の結果を見たとき、頭が混乱した。
落ちたのは、努力の末、実力を持ち合わせた候補生たち。
ここで落ちるようなメンツではない。
でも、何度見てもそれが「選ばれた現実」だった。
「じゃあ、最初から 実力じゃなくて適性で選ぶ って明言すべきだったんじゃない?」
そう思わずにはいられなかった。
「未経験者を育てるためのコマ」だったのか?
未経験者が受かること自体に反対しているわけじゃない。
むしろ、アイドルとしての原石が見出されることは素敵なことだと思う。
でも、これまでの過程を振り返ったとき、ふと嫌な考えがよぎった。
「未経験者を育てるために、経験者が“比較対象”にされただけだったんじゃないか?」
未経験者が成長する過程を見せるために、最初から経験者は「当て馬」だったんじゃないか?
もちろん、そんなことは運営の誰も口にしないし、明確な証拠があるわけじゃない。
でも、結果としてそう見えてしまったことが、この違和感の原因なのかもしれない。
菊池風磨の涙を見ても、納得できなかった。
このオーディションを発案したのは、菊池風磨だったという。
最初、他の2人はあまり乗り気ではなかったという話もある。
そんな彼が、5次審査後に自身の担当チームに対し、
「ごめんな、全員で行かせてあげられなくて。お前は何も悪くない。全部俺の責任だ。」
そう言って、泣いた。
その姿を見て、最初は「この人も辛いんだな」と思った。
でも、時間が経つにつれ、違和感がじわじわと押し寄せてきた。
「いや、でも、お前が始めた物語だろ?」
オーディションの審査基準を決めたのも、方向性を定めたのも、自分たちのはず。
それなのに、涙を流して「ごめん」と言われても、視聴者としてはどう受け止めればいいのか分からなかった。
「責任を感じる」ことと、「納得できる選考をする」ことは別の話。
最初から「適性を最も重視する」と言っていれば、ここまでの落胆は生まれなかったのに。
落ちた候補生たちの未来は、ここで終わりじゃない。
とはいえ、今回の結果は彼らの可能性を否定するものではない。
むしろ、ここで落ちた候補生たちは、「アイドルになるために必要な実力とプロ意識がある」と証明された存在 でもある。
彼らは決して実力不足だったわけではなく、「このオーディションの方向性に合わなかっただけ」 なのだ。
それなら、別の場所で花開くチャンスはいくらでもある。
事実、これまでオーディションに落ちた人が、別の舞台で輝いた例は数え切れないほどある。
だから、私は願っている。
この悔しさを糧に、彼らがどこかでスポットライトを浴びる日が来ることを。