忍者が足りない
自分は大学浪人時、二次試験の選択科目に日本史を選んでから、日本史にハマった。出身高校が山川出版のを使っていなかったから、受験勉強としては山川の教科書を買い求め、さらに用語集と補習用ノート。これに飽き足らず岩波新書・井上清の『日本の歴史』(上中下)や教科書検定裁判で有名な家永三郎先生の参考書を読み耽った。
家永先生のは唯物史観・階級闘争の歴史観が過ぎて、さしもの自分もちょっと引いたが。
もちろん「正史」に忍者は出てこないし、この年になるまであまり興味もなかった。読んだのは山田風太郎だって『人間臨終図鑑』だけだし、白土三平も「外伝」だけで、カムイ本体は未読である。
ある日、市川雷蔵主演・山本薩夫監督のこれを観た。
◆忍びの者(1962)
めっちゃ面白いってほどではないが、どこか心に残った。あ、信長役の城健三朗って若山富三郎のことです。
「ゴッドファーザー」でも「エクソシスト」でもそうだが、良い映画を観たら必ず原作本を読んでみなけりゃならん。すると、なんと驚いたことに作者があの村山知義ではないですか。
村山知義。若い人はご存知なかろうが、左翼劇場や新協劇団を主宰した演出家であり作家。戦前のプロレタリア運動を牽引した、ガチの社会主義者である。
なぜ社会主義者が忍者モノを?
氏は山本薩夫監督同様共産党員であり、本作も昭和35年から『アカハタ』に連載。今でいう『しんぶん赤旗』。
〝赤旗〝は日本共産党の機関紙であるが、何度か読んだことがある。むろん折々の社会問題をスクープしたりもするが、存外やわらかく、面白い。それにしてもなぜ忍びの者を。
Wikipediaを見ると「権力者に翻弄される弱小忍者の悲哀」みたいなことが書いてある。こういう記述は常に疑ってかかるべきで、実際に読むと、全くそうではない。
面白く、ためになる。家永三郎先生とは異なり、階級闘争的でもない。
信長が足利将軍家を擁し、のし上がってきた元亀・天正の頃。伊賀にカシイという下忍がおる。
忍者は上忍・中忍・下忍と位があって、伊賀は藤林長門守・百地三太夫という2人の上忍が勢力拮抗、支配しておる。
百地側のカシイには、タモという想い人があった。齢12の彼女はカシイの叔父(これまた下忍)の養女として、越前は朝倉義景のところへ上がらなければならない。そんな宿命である。
くノ一として。くノ一とは「女」という字をバラしたものだが、テレビや映画のような女忍者ではない。女は男に比べて体力的に弱いしアレなので、伊賀や甲賀では「忍者にはなれない」という決まりがあった。
タモは伊賀出身で朝倉家出入りの商人 ー 彼も伊賀のスパイである ー 経由で朝倉家の奥に入る。癇癖で、すぐにキレる朝倉義景も、なぜかタモを可愛がり何も言えない。
彼女の役目はもっぱら情報収集。百地三太夫も藤林長門守も反信長で、朝倉は味方側だが、忍者は敵味方両方に間者を送り込む。
なぜというに、片方だけの情報では客観的判断ができないからだ。
余談。俺は日本の軍備増強には反対も、巨大な情報・諜報機関を創設すべき。そう考える者である。例えば北朝鮮の拉致・ミサイル問題、米国の情報だけでは心もとない。我が国自ら間者を入れないと、拉致被害者がどこに何人いるのかさえ覚束ない。
※ただしそれには ー 亡くなった後藤田のおじいちゃんが言ってたように ー おそらく百年かかるだろう。今の政府の体たらく、日本人の体たらくでは。
しかしてきょうび、忍者が足りない。
話を『忍びの者』に戻します。
村山知義の筆致は至極冷静で、さすが演劇人である。脚本には台詞の部分と「ト書き」と呼ばれる背景や役者の動きを指示する部分があって、本作も物語と歴史的事実が交差する。
忍者とは、まずもって百姓である。ところが伊賀も甲賀も山岳地帯。耕せる土地が少なく痩せている。
※冒頭写真はあくまで出動時の服装。普段はガチの百姓である。
食っていくために彼らは山と川が入り組んだ同地の特徴を活かし、独自の術を編み出した。奇しくも時は戦国の世、大名たちはこぞって彼ら忍者に注文を出した。
もちろん大名の正社員ではない。派遣先が大名というだけで、藤林や百地がいわば派遣会社。中忍下忍は派遣社員である。
ただし派遣社員は派遣先の命令に従うが、忍者は大名と上忍、どちらの命令を優先するか。派遣元である。これが請負契約と派遣契約の違い。
大名は派遣会社にギャラを出す。そのうち7分を上忍が取り、仕事をした忍者が残り3分を取る。こういうことが書いてある。
村山知義は伊賀市役所に勤める忍者研究家に取材し、忍術のバイブルと言われる『万川集海』(ばんせんしゅうかい)と『正忍記』(しょうにんき)を読み込んだ。いわく
「忍術というのはドロンドロンと消えたり空を飛んだりする術ではなくて、〝いかにして人を騙すか?〝という術である」
「人を騙す最大の原理は、その人が好むものを与えるにしくはない。人の好む最大のものは金と女である。金と女で陥落しない人間はない。なかなか陥落しない者も、根気よく持続的に攻めかけ、それでも駄目でも、もし金の量をうんと多くし、また飛び切りの美人を押しつければ、きっと陥落する」
西郷さんが〝金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人ほど始末に困るものはない〝と言ったのがまさにこのことで、万川集海にも〝そんな相手はもう無理〝と書いてある。
「相手の人柄をよく見極めて応対すべきだが、まず相手自身よりも、相手が好み愛しているものを褒めて損をすることはない。器物、下女下男、子や孫、妻などを褒めるべきである」
上司に恨みを持つ者、こんなに成果を上げたのに給料上がらず出世も覚束ない、そんな不満を持つ者こそ狙い目であるとも。
しかして忍術とは、今に繋がる処世術・戦術と言える。手裏剣ピューじゃなくって。
本作の第1巻「序の巻」はこんな風。石川五右衛門(映画では市川雷蔵)も出てきて、彼も百地三太夫配下の中忍だが、ひとつのアンチテーゼとなっている。
感情を排し掟が絶対の忍者世界から、堺で女郎(映画では藤村志保)に惚れたのを機に、人間らしい暮らしがしたいと。
アンチテーゼのもうひとつは、カシイも五右衛門も仏像を拝むこと。カシイは五右衛門を監視する奈良は興福寺で。五右衛門は三太夫の命令で京を荒らし、盗んだ金品を隠す南禅寺の仏を。
いずれも涙を流すのである。別の下忍・小一に至っては一向宗(今の浄土真宗)に帰依する。
唯物論者、階級闘争論者の村山知義がこんなことを書いた。それこそ驚きだが、人間には様々な面があって、いろんな思いが交錯す。
だからこそ人間。そうして人間も歴史も、
テーゼ⇄アンチテーゼ → アウフヘーベン
と弁証法的に進歩するのである。
映画は大映。
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