アメリカン・ユートピア
チャーリーの死を引きずってばかりもアレなので、この映画を観てきました。
スパイク・リー監督『アメリカン・ユートピア』。
2018年に同名アルバムを発表した、元トーキングヘッズのデヴィッド・バーン。これが舞台化・ブロードウェイで大好評を博し、この舞台作品でワールドツアー。
しかし昨年来のコロナ禍でツアーは中止。そこでかのスパイク・リー監督が映像化したわけ。
デヴィッドバーン本人を含むキャスト全員は、揃いのグレースーツで裸足。舞台に立つにあたり余計なものを削っていったら人間と楽器、そうなったとか。
映画は舞台をそのまま映像化したもので、画面の向こうに舞台、手前が観客。そしてその観客の中に我々がいる。そんな錯覚に捉われる。
画面サイズの所以か、はたまたスパイク・リーの手腕か。ライヴ感が凄まじく、あたかも宝塚大劇場のSS席にいるよう。引き込まれていく。
まずもって、これはミュージカルである。そうお断りしておく。
例えば宝塚歌劇は芝居とショーで構成され、芝居は筋のあるもの。物語ですね。いっぽうショーは明白な筋というより、歌と踊りで構成される場面の集積。
『アメリカン・ユートピア』は、宝塚でいうショーに近い。
本作もまた場面の集積じゃあるが、全編を貫くキーワードは2つ。いや3つか。
1、意味の解体
2、つながり
3、変革
1について。
◆I Zimbra
これはブライアン・イーノが教えてくれた、フーゴ・バルというダダイストの詩をもとにデヴィッドバーンが曲を書いたもの。
バルは1932年にこの詩を書いた。1932年は大恐慌の直後で、ナチスが台頭した年。フーゴ・バルはそんなナンセンスな世界を揶揄し、あるいは対抗するため、ナンセンスな詩を書いたとか。
直ちに想起されるは柄谷行人の『意味という病』(講談社文芸文庫)。こと冒頭の「マクベス論」は、シェークスピア「マクベス」の論考を通じてキリスト教的意味世界を解体せむとしたもの。
我らがキリスト教は、日々の出来事や死、この世の災禍すら〝神の御業〝〝恩寵〝と捉える。一般的にはそう言われる。つまり、「あらゆることには意味がある」と。
しかし柄谷氏は「マクベスは、きれいは汚い・汚いはきれいという魔女の予言で、ただぼんやりしていたのだ」と。ぼんやりとダンカン王を殺し、ぼんやりしたまま滅びたのだと主張する。
フーゴ・バルはナンセンスな詩を書くことによって世界、すなわち「意味」の解体を図った。
これは一見ニヒリズムのようだが、ニーチェの「神は死んだ→超人思想」があくまで神を前提しているのに対し、バルはとことんナンセンス。ここが違う。
キリスト教的意味世界の解体という点では、どちらかと言うと柄谷さんの方が共通しているのではないか。彼はマルキストだけれど。
〝意味の解体〝は、えーっと、曲名忘れたがニワトリの脳。例えば自分がニワトリだったり、彼女の部屋にゴキブリとして現れ、その(部屋の)大宇宙を体感した場合、人間としての常識なんかに意味がある? みたいな。
己が存在を変えることで価値観は大逆転。これまでの「意味」を、また解体する。
だってそもそもストップ・メイキング・センスだぜ?
2、つながりについて
本作は、デヴィッドバーンの語り→パフォーマンスという構成。冒頭彼はこんな話をする。
「赤ん坊の脳は細胞同士が神経で、最高につながっているが、大人になるにつれつながりが失われていく。とすれば、僕らなんかバカの高止まりってわけだ」。
怠け者もまた、他者と繋がらないから己が可能性を閉じているというね。
◆Lazy
「つながり」は、キャストにも及ぶ。
デヴィッド・バーンは幼い頃にスコットランドから米国に帰化。他のキャストもブラジルやコロンビア、カナダの面々。
「移民がなければどうしようもない」。
これは移民賛成反対とか多様性()なんて議論じゃない。つながりは必ず、ユートピアを生む。
◆Everybody's Coming To My House
デヴィッド・バーン自身は「あんまり自宅に来て欲しくないなあ」というタイプ。が、この曲をデトロイトの高校合唱部がやったところ、めっちゃ来て欲しそうだったそうな。
メロディと歌詞が全く同じでも、演る人によって全然違うのが面白い。
本作のハイライトは続いて、
◆Once in A Lifetime
3、変革
白人警官が黒人を殺したことでBLM運動は起こった。Hell You Talmboutという曲では、その被害者たちの写真が映され、各々の名前がシャウトされる。
そして、One Fine Day(ある晴れた日に)。
しかし彼は言う。
「可能性、あるいは社会変革は、自らの変革と他者とのつながりで為されるものだ」
◆Road to Nowhere
この曲の客席下りで、映画は終わる。
『アメリカン・ユートピア』はとんでもない作品だ。極めて政治的な作品だ。
政治的というのは、イデオロギーや政策云々の問題ではない。日常のあれこれに、君自身はどう処していくのか。いったい君は何が好きで、どうしたいのか。
そこを問うこそ、まさに政治的ではないか。
帰途、50代くらいのご夫婦が話していた。「これは人によって、いろんなことを考えさせられる映画だね」「俺は2回観たけど、また見ぃひんとあかんわ」。
とりわけ舞台好き、ミュージカル関係者には是非観ていただきたい。優れたミュージカルは必ず、何かを考えさせるものだから。
場面づくりの参考になるし。俺もまた見ます。
あっ、彼らは録音でプレイしてません。全部ガチで演奏してます。
◆予告編
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