往復書簡:2通目。あざとさの話
https://note.com/laundrytime/n/n53bc8c71b271
2021/12/3(金)
イロコさんへ
お手紙ありがとうございます。
食い意地の張っている私は、イロコさんのねこの話を伺うと、はらぺこ偏食ねこちゃんにシンパシーを感じます。イロコさんににゃーにゃー甘えておやつをもらいたいです。
私は今村夏子さんの本を何冊か所持しているのに、実は読み切れたことがありません。なぜか冒頭数ページで脱落してしまいます。イロコさんからの手紙を機に読もうかと思ったけど、今も読みきれませんでした。今これを読んだらへこむよと、私の無意識が不穏な空気を察知してページをめくるのを止めているのかもしれません。
日ごろからイロコさんと私は似たところがたくさんあると思っていました。なので他人との関係について書かれた前回のお手紙にも共感する部分が多くありました。特にこの部分。
「あざとさ」を因数分解すると、「計算高く相手の心を手玉に取り、自分の欲しい結果に誘導する」という感じでしょうか。わかりやすい例だと、可愛らしい仕草や言動によって相手の心を動かし、相手に好かれ恋愛関係に持ち込むとか、仕事上有利に計らってもらうとか、プレゼントしてもらうといったところ。私は計算高い甘え上手のような解釈をしています。
でも実はここに、少しだけ違和感も持ちました。あざといひとは「ひとに受容されることを前提に」しているのかと、いうことです。
私もいわゆる「あざとい行動」をとることが全く上手にできません。それは私が一般的にウケるとされている女の子らしいファッションや仕草、あるいは言動に自分のこれまでの生き方がどうもそぐわない、自分とのかい離が大きいと感じていることがまず一つ大きな理由としてあります。
あざとさを発揮できるひとたちは、一般的にウケるとされている所作と元々親和性が高いという場合もあると思いますが、欲しい結果を得るためであれば他にこだわりなどなくて、相手にウケるものに自分を寄せていくことに抵抗が無いのではないかと思ったのです。「受容されることに疑いが無い」のではなく、自分の欲しい結果を得るために、相手が欲しいもの、あるいは感情を動かざるを得ない状態を提供することの方が優先順位高いのであって、自分自身を受容されることにあまり興味がないのではないかと。
ひるがえって自分のことを考えてみると、私はこれが何とも苦手です。王道でウケそうなものに自分を寄せていくことに、なぜか生じてくる恥ずかしさ。自分のつたない計算によって誰かを動かそうとしている浅はかさへの羞恥心。相手に受け止めてもらえるかどうかの逡巡の前に、なんだかんだ今のままの自分が可愛いくて、変わってもその挙句失敗するなんて恥ずかしいという自意識が邪魔をします。自分も可愛いけれど結果も欲しいという、何もかも捨てられないこのスタイルに対しては、「二兎追うものは一兎も得ず」という有名なことわざが結果を示しています。
そんななか、本当に変わりたいと私に思わせてくれるひとは貴重です。恋愛で、そのままの自分を認めてくれる誰かより、ちょっと背伸びしてつかみ取りたいひとにのめりこんでしまうのは、こういう理由なのかもしれないと思いました。
ただ、私だってわかっているのです。女の子らしい在り様をするとか、相手に合わせるだけがあざとさの必要条件ではないことも。相手が欲しいもの、求めているもの、心を動かすツボのようなものを探し、自分との交差点を見つけて提示できれば良いはず。ですが、私にはそれが皆目わかりません。どうしたら相手が欲しいものを、的確に見つけられるのだろう。こういうことが息を吸うように出来る人のことを、本当に羨ましいと思います。私が何かを動かそうとすると、計算すら上手くできず結局いつも自分の押し付けをすることしかできません。
イロコさんが私と同じとは言うつもりは全くありません。イロコさんは自分を提示したうえで、それを良いと思った多くのひとに既に受容されていると思います。ですがきっと、受容されないかもしれないけれどボールを投げてみたい相手や世界があるということなんですよね。わたしはイロコさんがどこにどんなボールを投げたいと思っているのかが知りたいと思いました。
少なくとも、娘さんや息子さんの行動は、イロコさんが「お母さん」だけではなく一人のひとであることを提示したら少し変わりそうな気がします。長らく甘ったれ娘だった私からの、頼りにならない助言ではありますが。
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