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まだ決めかねている

いつもはPCで文章を書くけれど今日は疲れていてPCを取り出す元気もないのでスマホで書くことにする。

6月1日、そして2日。緊急事態宣言が解かれやってきた6月私は久々に電車に乗り、出勤した。

私の会社はまだ基本的にリモートワーク。私は業務都合で2日間だけ出ることにしたが、会社に来ているひとの数は少ない。

通勤と、人と直で喋りながら仕事することの疲労は、一人で家で仕事をしていた時とは明らかに違う。身体がどんよりする。足がいつもより浮腫んでいる。帰路で頭の回転数がどんどん低下し、帰宅したころには頭が働かなくなっている。

リモートワーク期間中家では小さなノートPCで業務してきたが、会社のモニターやキーボードの有り難みをひしひし感じることになった。家の中に仕事の匂いのするものをあまりたくさん置きたくないと頑なに買わずにいたが、作業スペースが広がると頭のスペースが広がる感覚がある。背に腹は代えられないかぁ。

「観念してモニター買おうかなぁ」と総務のおじさんに与太話で話しかけたら「会社の持って帰ってもいいよ」と言われたので素直に持って帰ることにした。私がモニターを素のまま抱えて持って帰ろうとしていたら、総務のおじさんがモニターの足を外し、プチプチで梱包した後大きな紙袋に入れてくれた。壊されたら堪らないという判断の下とは思うが、お陰様でスムーズに家までモニターを運べた。ありがたい。

パソコンのモニターの話はともかく、本当はちょっと思考の断片を書こうと思ったのだった。
今日は眠いので詳細は割愛するが、私は意外なほどに「家族」を求めているのだなぁと気づかされた出来事があったのだ。

自分の生まれた家族は理想的では全くなかった。また大人になるにつれ問題のない家族など世の中に多分ないのだなと、わかるようにもなってきた。だから、自分が家族を欲しがっているかなんて、正直わからないと思ってきた。欲する気持ちは多分、世間体というか、何歳までに結婚して子どもができてという人生ゲームのコマを進めたいだけなんじゃないかと、自分のことを冷ややかにも見ていたのだ。

けどやっぱりそれだけじゃなさそうだ。当たり前に、毎日生活を共にする人がいたらいいなと思う。こんなコロナみたいな事態の時にも当たり前に一緒にいることを許され、当たり前に一心同体だと思われるってなんて稀有なことなんだろう。

先述のとおり、それが鎖でもあることなんて百も承知なのだ。今ひとりである自由気ままさも、ありがたく享受している。ひとつひとつ「合理的に」判断すれば家族を持つことなどリスクに過ぎない。

それでも、上手く説明のつかない憧れやまぬ気持ちが自分の手のなかに確かにある。それがわかってしまった。

憧れやまぬ風景を追いかけてみるか、握り潰してみるかは、まだちょっと決めかねているけど。

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