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素直だけれど、素直じゃない

真っ直ぐさ。素直さ。

同級生、学校や塾の先生、職場の上司。たくさんの人に褒めてもらった私の長所だ。

真っ直ぐさは、コンクールに出たい!賞が欲しい!この大学に入りたい!この仕事成功させたい!といった「私がこれと決めたら何が何でもこれ」という執念深さに起因しているものだろうと何となく当たりがつくのだけれど、素直、の方はよくわからないでいた。当然、言ってもらえれば嬉しい。

でも私、素直だっけ?

辞書を引いてみると「素直」は、性質・態度などが、ひねくれていないさまのこと。

じゃあ「ひねくれる」は?

むりやりにこじつけた理屈を言う。いろいろに理屈をつけて言いまわす。理屈をこねる。

なるほど。確かに私はこじつけた理屈を他人に言うことはあんまり無い。だから素直って言われるのか。だって、屁理屈を心の中で思うことはあっても、声になる前に飲み込んでいる。私には、自分以外の声の方がいつも正しく聞こえるから。

私は、最も自分に対して素直じゃないのだ。

私は文章を読むのも書くのも好きだ。小説も好きだけれど、それ以上にエッセイやコラムの類が好き。自分に生まれた気持ちや身近な出来事について、人の話を聞いたりや本を読んで調べたりもしながら思索すること、それを文章にすること。それが自分にとって面白いんだということは、ずっと前から気がついていた。

でも、いわゆる「やりたいこと」と問われた時に「エッセイストになりたい」などと言ったことは無い。断言する。

ぎりぎり、文章を扱えるであろう編集者になってみたい、記者になってみたいとかろうじて口に出していたし、就職活動もちょっとしたけれど、できるだけ知り合いに知られたく無いと思っていた。

自分がエッセイストに/編集者に/記者になれると思っている、とは思われたくなかった。イタいやつだと思われたくなかった。

だから、私はその好きの気持ちに理屈をこねてフタをした。

……そういうのは才能がある人がやるものだ、私は何一つ訓練してきたわけじゃないし、これから絶対にやってやるという胆力もないじゃない?それに、私よりもっと好きな人がたくさんいるし、私はそんなに好きじゃないみたいだよ?私なんかにはどうせ無理だよ……

本当はただ、やりたいと思った自分の気持ちを踏みにじることなく認めればよかった。

別に言ったからといって本当になれなくたって良かったはず。やるだけやってダメなら納得もするだろうし。なろうと努力する必要だって、必ずしも無い。就活の難易度がとか、好きなことやるだけじゃ稼げないとか、現実的な課題は、ちゃんと気持ちを認めた上で並べて優先順位を決めたり、リスクヘッジをしたりすれば良かった。

それなのに私は、言ったのにできなかったらかっこ悪いし、傷つくしと、がちがちに予防線を張って、気持ちをなかったことにする消火活動に必死だった。特定の誰かでもなく、自分の中に作り上げた他者の目をずっとずっと気にして。いや、あるいは一番自分自身に「本当はダメな自分」を見せたくなかったのかもしれない。そんなに好きじゃないって言えば、ほら、言い訳が立つ。

この「好きなのに、そんなに好きじゃないことにする」という典型的な「素直じゃなさ」は心でかなり幅を効かせて、こんなことばかり繰り返していたら本当に「好きなこと」や「やりたいこと」がどんどんわからなくなっていってしまった。小さな「好き」を踏みにじり続けてきたせいで、自分の世界を、自分で歪めてしまった。

だから今私にとって、自分の心の動きを振り返り、観察することが大切なのかなと思っている。今の心の動き、いいなと思うこと、嫌だと思うこと。過去を振り返って、心が動いたこと、損得勘定なく真っ直ぐに取り組めたことは何だったのか。

もうわがままに生きるんだ、ということじゃなくて。小さな気持ちの芽も、毒のありそうな芽だって、見つけてそこにあることをただ認める。そういう自分への素直さを手にして、もっと澄んだ目と心で世界を見て、もっと力を抜いて人生を歩んでみたいのだ。

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