推し活①-2 有間編
続きである。
有間皇子神社には既に参拝客がおり、神主が説明をしておられた。
それを横に聞き流しながら、参拝をする。
隣の掲示板には有間皇子にまつわる記事やポスターが貼り付けられていた。「有間皇子まつり」なるものがあることを、初めて知った。
命日の11月11日に開催される小規模なお祭りだそうだ。
有間皇子神社の横の道を抜けると、紫川という小さな川を渡る。
紫川の名称の由来は諸説あるようだ。
・紫川上流の石の色
・村崎という地名
・「名高の浦」の枕詞
北九州市にある紫川の由来も、枕詞だそうで、おそらく、和歌山の紫川も枕詞由来なのではないだろうか。
個人的には、石の色説が気になる。
紫川の上流では果たして、紫色の石が取れたのだろうか。
川の上流域の地層から考察することは可能だろうが、そこを掘り下げるのはまた別の機会にしたい。
このあたりは三波川変成岩(長瀞帯)だそうで、中央構造帯の南側にあたるらしい。高圧・低温型の変成岩からなるとのこと。藍閃石を含んだ青色片岩が紫色に見えたのかもしれない。
有間皇子の墓、である。
お花が綺麗に供えてあり、愛されているのだなと感じた。
目の前の道を歩き続けると、彼が刑死した藤白坂であるが、中々の急峻な道で軽い装備では心許なく、まずはここまでとした。
そして、この帰り道にふと、有間皇子は実際どの道を通って、藤白坂に辿り着いたのだろう?という疑問が生じた。
彼が人生に絶望して白浜に向かったのかどうかは分からないが、少なくとも不安を抱えて歩いたのだろう。道中見た景色は、彼の目にはどんなふうに映ったのであろうか。
その道を自分も共に歩き、彼が見た世界を見たい!!と強く思うようになった。
ちょっと人にオススメできない推し活の始まりである。
手始めにGoogleマップで彼の家から白浜を経由した藤白坂までの経路を考えてみた。
考えるべき経路は
①有間の家@市経〜白浜
②白浜〜藤白坂
である。
問題は色々あるのだが、
とりあえず、市経は現在の生駒市壱分とした場合の①のルートは下図のようになった。
陸路の場合である。
※徒歩ルートが車ルートに自動変更されて表示されていると思うが、情弱過ぎて対応できず。。
陸路でギリギリ2日で白浜に行けるらしい。
役人、有間共々健脚であれば踏破できるだろう。しかし、おそらく紐で束縛された姿勢であろう彼を引っ張って、2日で踏破可能か謎である。
ここで、色々調べていくと「飛鳥時代の官道」というものがあることを知った。
深くは書かないが、古代道路の研究が成されており、幾つか論文を読んだが非常に興味深い。
これは、別に深掘りしようと思う。
飛鳥以南には、「紀路」「紀伊路」「巨勢路」と呼ばれた和歌山までの官道があったとのこと。これは、陸路と川路からなり、紀伊水門(きいみなと)まで繋がっていた。紀ノ川の河口から川沿いに、大和に入る重要な道で、縄文時代から使われていた。
確かに、地形を見ると初期の大和政権が置かれた三輪山へ通じる唯一の道であったようだ。5,6世紀の初期大和政権時代では、紀ノ川沿いが重要官道であったのだろうか。この道を様々な貿易品が通過したのだろう。趣深い。
難波津の設置により、紀ノ川の海上交通の役割は徐々に失われて行ったのだろうが、有間皇子が存命の頃はまだ機能していたと推測する。
また、有間皇子が海路を経由し淡路島方面へ逃亡する計画を立てていた。と何かの記事で見た記憶がある。さもありなん。自分が有間ならば、川路から海路に切り替わる時、船の乗り換えなどがあるなら、その隙を見て逃亡する。
彼がそうしなかったのは、「できなかった」のか「諦めていた」のか。どちらであろうか。
少し調べてみると、かの時代は今まで自分が思っていた以上に、陸路、海路が発達していたようだ。先入観を改めなければならないと自省。
さて、有間皇子が白浜まで送還される経路であるが、上記の通り、当時の道路状況を鑑みると陸路で行ったとは考えにくい。港までは陸路をたどり、白浜まで海路で向かったのではないだろうか。
自分が役人なら、絶対海路を取る。何故なら歩きたくないからである。
では、どの海路を使ったのであろうか?
有間の父の孝徳天皇在位までに、難波大道などの道が整備されたこともあり、壱分(生駒市)→難波→海路→白浜のルートもありうるかと思う。これは、有間の家が今の生駒市壱分にある場合、距離的にこちらの方が陸路の範囲を抑えられ、輸送負荷を下げられるルートと考える。
だが、正直、この頃の難波津がどの程度機能していたのか不明だし、皇族同士の争いが激化していた時代背景も考えると飛鳥経由して都人に見せしめをした可能性が高い(かも)。
と、いうわけで、下図に示すように
壱分→飛鳥掠めて紀路→紀ノ川を川路→紀伊水門から海路→
磐代で停泊?(この時にかの歌を読んだ?)→崎の湯(白浜)
を通ったであろうと仮定する。
一旦、ここまで。
次回、磐代へ続く。
※スマホでGoogleマップの埋め込みできないのはとても不便。
※注:本記事は学術的、科学的知識に基づいたものではなく、妄想と戯言から構成されています。
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