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「昏い水」を読む

マーガレット・ドラブル『昏い水』(武藤浩史訳)新潮社


イギリスの中流階級の老人たちの晩年の日々が綴られる。複数の登場人物の生活のなかに、死への畏れやあきらめ、悲嘆や焦燥が現れたり消えたりする。主人公は、中皮腫に冒された女友達テリーサと再会する。かつて隣同士に住んでいた彼女と、老年になってから少女時代の共通の思い出を確かめ合う。
「フランの子どものころのテリーサ崇拝が今、百倍になって帰ってきた。」(p.180) 

先の時間が短くとも、彼女たちは、過去の時間をふたたび探検し、過去を花開かせることができるのである。
「記憶には豊かな古層がある。残された時間、その古層を、二人で会うたびに探索する。再会できたのは双方にとって良かった。テリーサも、もう先の寿命は尽きていても、追憶することで昔の人生がぐんと伸びた。花が開いた。」(p.174)

最近読み返していた絵本『はなのすきなうし』に、主人公フランが言及する場面があり驚いた。
私はこの絵本が、反戦思想に裏付けられているとは感じていたものの、スペイン内戦時に発表されたことは最近知った。
フランの次の言葉が、自分の心境とシンクロして不思議な親近感がわいた。
「ごく最近まで、花の好きな牛フェルディナンドが反フランコの平和主義の象徴であることには気づかなかった。だが、一度わかれば、それがはっきりと表されているのもわかる。スペインとナチスドイツでは発禁になったことも知った。」(p.289)

『はなのすきなうし』、時代背景を考えると、フェルジナンドが大勢ではなく「ひとりで」いることが好きであり、それをまわりに尊重してもらえることがいかに大切なこととして描かれているかに気づく。

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