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「野生のしっそう」を読む

(2024年6月25日に書いたもの。その後父は8月半ばに他界した。)

野生のしっそう 障害、兄、そして人類学とともに」猪瀬浩平 (ミシマ社)

わたしたちは、たとえば、接触過敏の人に対して、この人は接触過敏だからこうなのだ、という仮説を立てがちである。
人混みを歩く時に大声を上げる彼は、過敏な自分をひとびとが避けてくれるよう、自分のために叫んでいるのだと。
この本のなかで紹介される岩橋誠治さんは、その仮説を、考え直し、転回させる。

もしかすると、彼は、他のひとたちが、自分と同じように接触過敏だと考えているのかもしれない。大声を出すのは、自分を守るためではなく、他の人への配慮「他者を気づかう叫び」だったかもしれない、と。 
少数の体質を持った人は配慮されるだけでなく、配慮する人である、ということに気づき、無意識に引いていた線をずらしていく。

そこまで想像するとき、ほんの少し、かろうじて他者につながる可能性が生まれる。

著者である猪瀬浩平氏は「かする」という言葉を使っている。

「兄のしっそうを理解したつもりで得意になったわたしの描く線から、さらに兄はしっそうしていく。そうやって兄の存在を捉えようともがくわたしの理解や記述を、兄はすり抜けていく。それは兄の存在のかけがえのなさであり、人とともに生きることの切なさである。さらに、わたしの理解や記述が、かろうじて兄をかすっていることが、人とともに生きることの喜びである。」(p.8)

(以下、わたし自身の話)病床の父と話していると、父の発言がとんちんかんであったり、事実とずれていることがある。お互いがどういう人間かはよく見えていないのである。それでも、何か真実味のあるやりとりができたと感じることがある。
結局、誰のこともわからないし(自分のことですら)、わかることがゴールではないのかもしれない。「かする」という言葉を読み、なるほど、そんなささやかなものでしかないのか、過剰な意味を求めずにいることがむしろ肝心なのか、と腑に落ちた気がした。

著者は、兄が自分とは異なるやり方で祖父の死や父の老いを経験していると、想像する。だが、言葉や解釈をすりぬけていく兄のかけがえのなさを前に、勝手に言葉を与えたりはしない。
叫ぶ兄を前に、兄のふるまいを解釈するのではなく、叫ばなかった自分に問いを突きかえす。

「つながっているところと、ずれているところと、その両方が重要である」(p.243)

思うように動けなくなった老父が、おずおずとした、事柄の余白を想起される言葉で、著者の兄の意思を読み取るようになったというくだりがある。
不自由さを得ることで、断定することへのためらいが生まれた。その余白の重さが胸に響く。

著者は「生きることの切なさとは、かつてそのただなかにあったものが徐々に、しかし確実に失われてしまうことだ」(p.256)と述べる。
その反面、失われつづけるもののなかに、束の間しか形をとどめないが、周りのものを震えさせるかけがえのない経験があることが、家族や友人たちとのやりとりを丁寧に紡ぎながら語られている。

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