![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17940264/rectangle_large_type_2_fceca46abddf373d912b4da0b1acf509.jpeg?width=1200)
【第四回読書ススメ録】&【考察】私は作家に憧れる
皆さん、自分の好きな作品を挙げればきりがないんじゃ無かろうか。
少なくとも、私は、ない。
特に「人間性」に影響を与えた本はごまんとある。けれどそれ以上に、「この人のようになりたい」と思った「作家」を紹介しよう。
・決意させた作家
私がうるさく好きと言っている漫画〈Have a Great Sunday〉。
オノナツメさんの作品だが、私はこの作品の主人公、「楽々居輪治」という老作家に憧れ続けている。
彼は賞を取り、その作品が映画化されるほどのハードボイルド作家なのがストーリーの中から伺える。
この作品は彼とその息子二人の「最高の日曜日」を楽しむ内容だが、時折、楽々居輪治の若いNY時代、作家になる前や直後の彼が苦悩する様子を描いた話が巻末にある。
彼のデビューは45歳。
「この年齢でデビューしていないのはおかしいかな」という輪治自身の言葉に、のちに友人となる男がこう答えるシーンがある。
「おかしかねぇ。まだ書いてないだけだろ?」
オノナツメさんの作品は総じて完成度が高い。唖然とするほど。手が届かないと思うほど。
けれども、それ以上に私がすごいと思うのは「何でもない日常を漫画にしていること」だ。
私が平凡な日常を書こうとしても、その中でささやかな事件を起こし、起承転結を心掛け、読者を驚かせようとするだろう。
しかし、彼女はそういった作品も、もちろん描く傍らで、そういった「日常のワンシーン」さえ見事に切り出して立派な一話にしてみせる。
私は、こういう作家になりたい。
・根っこに反映されている作家
「西の魔女が死んだ」の作家で有名な梨木香歩さん。この人も私はずっと好きと言い続けてはばからない。
この人の作風は、風という言葉が一番似合う気がする。
一番好きな作品は「家守奇譚」だ。
けれど、それを紹介するのはまた後程にしよう。好きすぎるので。
私はこの人の言葉に憧れる。というか、無意識に模倣している部分も多々あると思う。
特に、エッセイで。
静かに朗読できる詩のようなエッセイ。
時折、「あわい」に紛れ込んだような物語を交えながら、悲観の視点から世界を俯瞰している。
梨木香歩という人は、人よりも「あわい」に近い立ち位置にいる様な気がする。その立ち位置に、私も立ちたいと思い続けている。
たとえば、彼女の「水辺にて」の文章から、少しだけ引用。
「小さな神々が声を立てて笑っているよう。波と一緒に自分もプリズム化されてゆくような、あるいは無機化されてゆくような、そういう乾いた至福」
この感覚を持ち、言語化できる作家を、私は彼女以外にまだ知らない。
・小説という衝撃を与えた作家
今度は二人出そう。恩田陸さんと「はやみねかおる」さん。
私が小説の面白さと出会ったのは、この二人の作品だった。
何度かやはり文章に書いているけれど、作品は「六番目の小夜子」と「虹北恭助の冒険」。
初めてまともに読んだ小説が、「虹北恭助の冒険」だ。
いわゆる日常系ミステリー。
小学六年生の主人公とその幼馴染が、生まれ育った商店街や学校を中心に事件を解いてゆく。
当時の私が憧れたのは、不登校児の「虹北恭助」の在り方だ。正直この間書いた作品も、未だに虹北恭助が私の中で居座っているが故に生まれたものだろう。
商店街の中心となった古本屋を営む小学六年生。彼の知識はすでに高校生の域を超え、古びた書物に囲まれ、その抜群の記憶力で店に来た客の総てを覚えている。
おお、ここまで書くとなんて正統派な探偵像。
けどそれ以上に小学六年生の私に響いたのは、「みんな違ってみんないい」という元学校の先生である「はやみねかおる」さんのメッセージ。
多分今も、残響と呼ぶには大きすぎるほどに、そのメッセージは心の中に響いている。
「六番目の小夜子」の初見は、当時見ていた「愛の詩」というNHKドラマ。
かの山田孝之のドラマデビュー二作目である。
ここでちょっとフェチるけど、めちゃくちゃかわいかった。あれぞイケメンだと思う。今もっと色々な意味ですごいけど。
小説を読んだのは、やはり主人公たちと同じ中学生ごろだっただろうか。
狭い「学校」という窒息しそうだけれど、華やかで独特の社会性を持つ小さな社会、そこの隣にそっと寄り添うような謎の小夜子伝説、そしてそこに現れた美少女の転校生、小夜子。
日常が非日常へ転換し、多感な少年少女たちを謎へと巻き込み落とし、「学校」という場所の怖さも美しさも文章で表し、最後は当たり前のように日常へと戻ってゆく登場人物たち。
梨木香歩さんを「風のような文体」と言ったが、「六番目の小夜子」に至っては「嵐のような作風」だった。
けれど、どうしようもなく、美しいのだ。
いつか書きたい作品はどんなものだと聞かれたとき、私は躊躇うことなく、「六番目の小夜子」ということができる。
・まとめ
在り方、生き方、書き方、世界とのふれあい方。世界の見方。
「なりたい作家像」として、最初に架空の人物を上げることになったけれど、それでいいのだと思う。
考えるべきは、目指す方向。
その指針となるのが架空であっても、その言葉が真実として自分の中に響いたのなら儲けもの。
今が苦しいのは当たり前。なぜなら、私は社会にまだ何も提出していないのだから。
私に「社会についてどう思う」という議題は早すぎた。
だから、少しだけ身近な話題から、こうやって「自分自身」を紐解いていくべきなのだと考えを改めて、今この文章を書いている。
いいなと思ったら応援しよう!
![千羽はる(ChibaHaru)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/31146132/profile_b721f957d055119fdb5b190561dfbde8.png?width=600&crop=1:1,smart)