【日記】私が爪を切る理由、戦う術を知る理由
徹底的に、爪を切る。
あこがれたことはあるがネイルはせず、気分ではあるが31歳だというのに髪も染めたことがない。
なぜなら、それは邪魔になるからだ。
おしゃれを排除してまで、自分はなぜか「武術」に携わるものとして生活している。
きっかけは何だっただろう。
周囲に空手をやる子が多くて、対抗心がわいたせいか。
それともただ単純にかっこいいと思ったのか。
または、劣等感にさいなまれていたあの時期、強くなれれば何とかなると思ったのか。
理由はもう忘れてしまった。
最近、spaceで自分が武術家とはいえないまでも、それに準ずる人間として認識されることが多くなったので、ふとnoteを書いてみようと思う。
初めてこぶしを握って先生の型をまねるようになったのは、12歳の時だった。理由は上に書いたように忘れてしまったけれど、なぜか向上心だけは呆れるほど強かったことを覚えている。
今でもなのだけれど、当時から回し蹴りが異様に得意。また、遺伝らしく人よりも関節技が効きにくいので、関節技でいろいろな大会をのし上がってきた先生にとっては結構な難敵になるのかもしれない。
先生は、細身の男性だ。12歳から31歳になるまで長い付き合いだが、しわ一つ増えておらず年齢不詳なのは東洋の神秘だとずっと思っている。
先生は、自分よりはるかに筋肉質な相手であろうと関節技を決めてしまえばこっちのもの、とよく笑う。
そして、先生が独自に中国で習ったらしいこの流派では、力で押し切ることはなく、むしろ力を利用する型が多い。
合気道みたいですね、というと、困ったように笑い、必ずこう言う。
「これは中国拳法ですよ」
もう何十年もいるのに、実は私は自分の流派をしっかりとは知らない。先生が語らない。それでも、武術に必要なものは身の内にそろえてしまったらしい。
誰かを倒す技を。誰かを傷つける技を。そして、それを律するための精神を。
子供に武術を教えるのは、少々酷だな、と思う。
だって、自分の力を見せたくてしょうがないんだもん。
だって、けなされたら殴れる自分がいるんだもん。
実際、小学校5年生の子が「人を殴ったから」という理由で止めてしまったことがあった。その時、すでに中堅になっていた自分は、哀しそうな先生の気持ちがよく分かった。
「その先を、これから一番教えるべきなのに」
その後、私は歴史好きが高じて一つの古武術を学ぶことになった。
それは戦後にできた二刀流の武術であり、最小最速をモットーとした剣術だ。
歴史的には新選組の斎藤一が習った「無外流」が原点にあるという。
最初は柔らかな素材でできた棒を二本持ち、対人でゆっくりと稽古する。
それが終わると両方とも腰に差した木刀となり、それもまた対人で稽古する。
ここまでのレベルになった以上、「当たった方が悪い」という理由で防具などは一切つけない。
そこから先は、模造刀だ。木刀とはレベルが果てしなく違う。
重さ、煌めき、その存在感。握った瞬間、普通に怖かった。
振るえば白銀の煌めきが、本能的な恐怖そのものとなる。それだけでも怖いが、これでしっかり対人もするのだから、その恐怖たるや。
先生からは「ビビりすぎ」とよく笑われたが、中国拳法の除け方を熟知した体は「最小最短の回避」ではなく「大仰な回避」を選択してしまう。
よく𠮟られたものである。
中国拳法とは体の重心を置く場所が異なるが、姿勢は平凡な人のそれではなかったようで、古武術の先生からは「なにかやってるでしょ?」と一発で見抜かれた。
その上、普通よりも腕が長いことにも注目されてしまった。
「木刀切っていいよ、十センチぐらい」
もったいなくて、できないでいる。
それさえ超えた先に、本来なら真剣が待ち受けているはずだった。しかし、生活の都合で通えなくなったため、段をもらった後、唇を嚙みながら辞めることとなった。
しかし中国拳法の方は、もはや心身の安定のために必要不可欠なので必ず通っている。
友達を誘ったら、2週間で辞めてしまった。
そんなにハードだろうか? と疑問に思ったが、確かに真冬なのに2時間でサウナに入ったような汗だくになる運動はそうそうないという常識を忘れていた。
これを習って数十年。
それでも出せない答えがある。
「強いって、どういうことだろう」
型どおりの動きをするたび、先生に「この動きは相手のここを攻撃する」という具体的な「死の香り」がする行動をとるたび、その時は頭を真っ白にしてその通りの動きをする。
意識するのは呼吸だけ。
狙うのは脳の中で作った相対する人間で、自分はそれを殺すために動く。わき腹を刺す・目を突く・骨を砕く・そういう動作を繰り返し繰り返し続けていく。
長年やれば、的確に相手の急所が分かるようになる。
習慣にしてしまえば、無意識に相手との間合いを図る。一度、剣の道に触れてしまったから、下手をするとほかの人よりもそれが強いかもしれない。
そして、そのたびに思う。「強いってどういうことだろう」
自分はもしかしたら強いのかもしれない。自分よりも大きな成人男性を倒すことだって何とかなる自信はある。
けど、そんなものが重要でないこともよく知っている。
「美しくあれ」
先生の型を見るたびに、剣術の型を見るたびに、頭の中でそうささやきかける声がする。
無駄がなく、洗練され、同類だけれどまったく異なる、「暴力」とは縁遠いその動き。
無駄がなくなった究極は、手刀で大木を切ることであり、震脚(地面に足を叩きつけること)で地面に穴をあけることだ。実際、太極拳で有名な寺では石畳にたくさんの穴が開いているのだとか。
呼吸法で力を加減し、相手を制するときの体重さえ変える。
それは普段から意識しなければできないことであり、自分の生活はいつの間にか、地続きで武術に捧げられている。タバコを吸えばすぐに動けなくなる。爪が長ければ自身が傷を負う。
だから、タバコは吸えないし、爪は伸ばせずネイルもできない。
体が美しくなければ武術はできない。
武術を行う人間に、無駄は不要なのだろう。
ある意味でロボットっぽいけれど、それはそれで一応正解なのだろう。
小学五年生のあの子、人を殴ってしまったあの子。
あの子は決して暴力を誇らなかっただろう。そのあと、先生に怒られ、親に怒られ、親から強制的に好きなことをやめさせられてしまった。
「人に暴力を振るう」という段階を自分も経験したからこそ思える。
見栄を張りたくて、言い返せないから手が出て、そうして出た拳はただただ痛いだけ。
相手はもっと痛い思いをするけれど、武術を習ってしまったあの子は、「手を出した」自分の弱さに打ちひしがれたのではないだろうか。
自分が習った武術はすべて、「こちら側からは手を出さない」もの。相手が殺気を放った時、指一本でもそのために動き出したときのためのもの。
「美しくあれ」
もしも人を傷つけてしまったら、それはすべて自分の弱さが原因だ。
自分が弱くなければ、相手を傷つけずに済む。
自分はそういう技を極めていきたい、そう、強くなりたい。