森があたえてくれるもの
梨木香歩さんの『エストニア紀行』の中にこんな一文がある。
人が森に在るときは、森もまた人に在る。
-中略-
互いの浸食作用で互いの輪郭が、少し、ぼやけてくるような、そういう個と個の垣根がなくなり、重なるような一瞬がある。
生きていくために、そういう一瞬を必要とする人々がいる。
結構こういう人、多いんじゃなかろうか。
「普通の日常」を送るため、多大なエネルギーが必要で、それがガリガリと音を立ててすり減っていく。
そんなとき、森にお邪魔して静かに目を瞑れば、不思議なくらい満ち足りる。
エネルギー充電完了、とでも言うように。
まさしく梨木さんの言葉通り。
耳をすませば、森に息づく命の濃厚な気配がある。
それは、都会に住む人間には未知の恐怖。
なにせ自分以外の「大きなもの」が被さってくるような、あの感覚。
そんなものがあることさえ、今の私達は忙しさで忘れてしまう。
でも、その恐怖感が薄らぐと、それは木の音であったり、こちらを不思議そうに見る小さいものの視線であることがわかる。
仲間に入れてくれませんかと、心の中で森に聞く。
人が森を出ても、人の中に森が残る。
街で張り詰めていた、ちっぽけな意地が、作らざるを得なかった壁があっさりとなくなって、その隙間に「森」が入ってくる。
多分それが梨木さんのいう、輪郭がぼやける感じなんだろう。
だんだんそれが減ってくる頃、そういう人はまた森に帰りたくなるのだろう。
自分の中に、森を補填するために。
そういう感覚を与えてくれる森を抱く山には、何故か、神社や寺院などのお社がある。
人の建てた建物が、森に流れる時間と調和している。
流れる静謐な空気の中に、今も昔も同じように、「森を補填する」人がいて、彼等が森を守っていこうとした想いが混じっている気がする。
そうきっと、森には「人」が混じっている。
古来から人と森はともにあったのだと、文書でも文化でもなく、そこにある空気が、「森を補填」せずにはいられない自分自身が囁くように教えてくれる。
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