琥珀色のあの人
その人は琥珀色をしていた。
目も、髪も、その雰囲気さえも。
何故そう思ったのかといえば、結局のところ、その人の胸元で大きく揺れていた琥珀のペンダントのせいだ。
――ああ、これかい?
その人は、うっすらと微笑む。視線が行く先を見て、その大きな琥珀を手に取って、私に見せた。
――これはね、大昔にもらったものだよ。本当かどうかは知らないけれど、創世記に舞い降りた天使の一人が入っているという。
――天使はそんなに小さくないんじゃないの?
――とんでもない。天使はいかようにも形を変えられる。ほら、ご覧。
年老いて、まるで赤子のように滑らかな乳白色になった掌に、なんとも言えない柔らかな琥珀色が映り込む。日の光に照らされたその中には、たしかに、その人の言うように「天使」がいた。
いや、琥珀の中に丸く収まった、華奢な骨のような羽が一枚。
—―お前にあげるよ。私が死んでしまっても、お前の側にいられるように。
そう言って、琥珀色のその人は、自分の首にかかっていたネックレスを、幼い私の首にかける。
石は冷たく重いというイメージに反し、その琥珀はとても暖かく、幼い私の首にかかっても、ちっとも重くない。
私は、今でも後悔する。
どうしてあの時、「ありがとう」の一言を言えなかったのか。
・ ・ ・
その人は、群青色をしていた。
年端も行かない年齢に見受けられるのに、その雰囲気は30年の人生を過ごしてきた私より、よほど貫禄に満ちている。
得も言われぬほど美しい、この世のものとは思えない容姿。
けれど、その人の雰囲気は怜悧すぎて、青すぎて、美貌だけで言えば「天使」と表現できるだろうに、どちらかといえば「死神」と表現する方がふさわしい。
その人は深海よりも、なお蒼い双眸を優しげに細め、私にシックな丸テーブルについた、これまたシックな椅子を勧めた。
その薄い唇から、氷の霜が吐き出されそうだと思ったが、差し出されたのは果実の香りが漂う暖かなフレーバーティーである。
そして、氷の霜の代わりに。
少年とも少女ともつかない、高く穏やかな声が紡がれた。
「ようこそ、月草骨董店へ。あなたをお待ちしておりました」
きらり。胸元の青いループタイが光る。どうやら、これまた深海のように青い石でできているらしかった。私の目は、無意識にその石に注がれる。
「綺麗な石ですね」
「有難うございます。店主の看板のようなものですよ。とはいえ、貴方も美しい宝石をお持ちのようだ」
ああ、そう。そうだった。私は首から琥珀を外す。
「これを、お売りしたいんです」
「これを?」
その言葉を予想でもしていたのか、発された言葉よりも店主の目にはさほど驚きは見られない。
驚いたのは、むしろ私の方だった。
「これは、天使が閉じ込められた琥珀でしょう。よろしいのですか?」
「……なんで、知っているんですか。それは私と祖母しか知らないはずなのに」
「わかる者にはわかりますよ」
そう言って、店主は琥珀を手に取った。受け取ったというわけではなく、ただ、懐かしいものを慈しむような、かつて祖母がよくやっていたような動作。
―ー何だろう。めまいがする。目の前に20年以上前に亡くなったはずの祖母がいるような。そして、これを売ろうとする私を咎めているような。
いいじゃない、20年経ったんだもの。物持ちのいい方でしょうよ。
たかだ鳥の羽が内包された琥珀だ。大きいけれどゴミも多く入っており、宝飾店にもっていっても価値はないと言われた。
物珍しさであれば、欲しい人もいるのではないですかねぇ。
慇懃無礼なかっちりスーツの店員は、冷淡な口調でそう言った。
てっきり、ここの店員もそんな対応をするだろうと思っていたのに。
冷たい店主は、表情を変えずに感嘆の溜息を洩らす。
「よくぞここまで美しく保てたものです。この天使は気難し屋で、数百年前はくすんでしまって琥珀だとすら思えなかったのに」
「……そう、なんですか」
数百年前、という単語に痛烈な違和感。
眼前の人物はどうあがいても10代。というか、20歳まで行っていないに違いない外見の持ち主なのに。
しかし、なんというか、あまりにも当然のように法螺話を言われてしまったので突っ込む機会もなく、私は黙ってお茶をすする。
うん、とてもおいしい。
店主は琥珀を私に返すと、徐に立ち上がって商品棚から一つの鏡を持ってくる。
べっ甲の手鏡。手鏡というよりは少し大きく、20センチほどの楕円形。
「いいえ、これはべっ甲ではなく、琥珀ですよ」
「……えっ!?」
「その琥珀と同じ時代にできたものです。まだ、神の力が色濃く残っていたので、おそらくは同じ天使の光を帯びたのでしょう」
もはや何も言うまい。当然のような法螺話を、私は首を縦に振って受け流す。
しかし、そんな私の無頓着さすら、愉快気に細められる蒼い瞳にはお見通しのようだ。
「証拠に、ほら、ごらんなさい」
店主は、手鏡とネックレスの琥珀を近づけて……私は、目を疑った。
両の琥珀が輝きを帯び、ふわりと宙に浮かぶ。
まるで、どこからか投影されているかのように、宙に、小さな琥珀色の両翼が震えるように羽搏いた。
「これは、天使の化石。琥珀がどうやってできるのか、ご存知ですか」
「い、いいえ」
「琥珀は、太古の樹脂が固まって化石になったもの。ゆえに、昆虫や太鼓の生物が内包されることがあります。いわば、時を超え、古を記録する石……そこまで聞かれて、かつて、この店でこれを受け取られた女性がおられます」
同じくふわりと浮かんだ鏡に、ぼんやりと私が映り込んだ。いや、私じゃない。
私よりも目が優しくて、私よりも少し鼻が小さくて、私よりも少しだけ大人びた一人の女性――これは、祖母だ。
私によく似た、若いころの祖母は、鏡の中で笑いながら言った。
「一番幸せな時に、幸せな時間をこの石と一緒に過ごしたら、私の大切な人はきっと幸せになるでしょうね」
写真でもなく、音声でもなく、太陽の木漏れ日ように温かい気持ちを、天使に委ねて、時を越えて、大切な人へ送りたいの。
「人の時間は有限だけれど。人の幸せを感じる瞬間は一瞬で過ぎ去ってゆくけれど。それでも、太古から時を旅してきた石は受け継がれてゆくものだからと。あなたのおばあさまは、自身の一生をかけた幸せを込めて、貴方に石をお譲りしたのでしょうね」
そういって、店主は私に石を返す。同時に、綺麗な白いハンカチを添えて。
私は、すべてをかき消そうとしたのだ。祖母の優しい願いを、不意にしようとしたのだ。
わかっていたのに。祖母が、誰よりも私の幸せを願ってくれていたことを。
「天使はおばあさまの願いに応え、貴方もその想いに応えた。だからこそ、琥珀はここへ帰ってきました」
「帰る……? 私、売ろうとしたのに……」
「いいえ。琥珀は、卵ですから」
店主はそう言って優しく笑う。ほたほたと、涙が溢れる。白いハンカチは私の涙を絶え間なく吸い込んでゆく。
思う存分泣き終えた私の手から、ふわりと、店主の手が涙がしみ込んだハンカチをさらった。
「悲しい涙は、天使にもっていっていただきましょう」
宙に浮いたまま、フルフルと生まれたばかりの雛のように頼りなく羽ばたいている琥珀に、ハンカチをふわりとかける。
途端、ぱり、という卵の殻が割れるような軽い音が周囲に響く。
驚いて目を見開くと、店主は、薄い唇に人差し指を当てて、「shee」といたずらっぽく片目を瞑る。
ぱり、ぱき、ぱりぱりぱり
ハンカチの内側で、何かが羽化している。私の胸元にあったネックレスだったものから、何かが生まれようとしている。
鏡から、歌声が響く。もう映ってはいないけれど、それは、懐かしい祖母の子守唄。
私も、無意識に、歌う。
懐かしい旋律に声を委ねて。赤く腫れた眼を、ハンカチの内側へ向けて。
ぱりん!
ひときわ大きな音と共に、「それ」は生まれた。
――その人は、琥珀色を、していた。
私によく似た顔立ち。背には微かに震える透明な琥珀色の翼。小さな、20センチほどの愛らしい人。
「……おばあちゃん?」
白いドレスを纏った彼女は、私に向かってふわりとほほ笑んだ。その場でくるりと愛らしく一回転し、すっと顔を天上へ向けたかと思うと、琥珀色の翼を大きく羽搏かせて、すうっと一筋の光となって消えた。
あれは、たしかに祖母だった。あの優しい微笑も、その立ち振る舞いも、すべてが祖母だった。
そして、私だった。
私は、しばらく、その場に座り込んでいた。店主はただ黙って、紅茶を注ぎ、向かい側で静寂の時間を守ってくれていた。
「……あの、店主さん」
「なんでしょうか」
「……琥珀は、ありますか? 天使がいなくてもいいんです。ただ、幸せな時間を共に過ごすための、それを、私の子供達に伝えてゆくためのお守りが欲しいんです」
「ええ、ございますとも。あなたをお待ちしていたものが」
店主は、にこりと微笑んだ。
「ここは、月草骨董店。あなたをお待ちしている逸品が、ここにありますよ」