私の場合を整理してみた。
自己分析のすすめ
正義感? 違う自分の意にそぐわないものが嫌なだけ・・
余計なトラブルを起こすくらいなら、やるべきことをやればいい。
余計なことに使うエネルギーは、余計でないことに振り分ける
そんなことに気づくために #自己分析のすすめ
営業時間の時短要請も一切無視してアルコールの提供を続ける居酒屋緊急事態宣言も、蔓延防止も関係が無い、コロナ前と全く変わらず営業し、連日大変な盛況ぶりである。さらに、この店、コロナ前にはやっていなかった、店舗建物外でのテーブル椅子を出しての営業を開始した。周囲の自粛に応じる店舗をあざ笑うかの様に。
我が家のマンションの駐車場は普通車1台4万円を超える。そのマンションの敷地内のスぺースに、正規の駐車場契約をせず、毎日自家用車を停めている住民がいる。
以上の事案は、私の生活に直接、不利益を与えてはいない、だから、私が目くじらを立てる必要はない、それは凄くわかっている。けれど、それがなんとも、私の中では許せず腹立たしい。 なぜ、これは決して私の中の正義感がなせる業ではない、これはおそらく、自分の中の基準に逸脱していることで、これがどうにも腹立たしいという一種の #障害 なのだと分析する。
なので、何処かに通報したい衝動に駆られる。例えば、前者は都や区に、後者はマンション管理組合にだ。
ただ立ち止まって物事を考えてみる
立ち止まって考える、私は通報することで、何を勝ち取るだろうか、それは自分が一番理解している、そえは、えも言わぬ達成感、これにより気持ちがスッとする。通報したことにより、通報された側の事を考えたり、通報した側とされた側のトラブルを考える事よりも、一瞬の清涼感を求めたい。それが、本音だけれど、自分に直接の害が無い事で、それを摘発して自己欲求をみたいしても、結局は同じことの繰り返しで、永遠に満たされることはない。一方で、私がやらねば誰がやるのか? という、まやかしの正義感や、彼らが更にエスカレートしたら? という気持ちもまた存在する。けれど、社会的に問題があり、それが、あるところで限界を迎えれば、粘着質な人間が余計なことをしなくても、愚行は明るみに出て、彼らは結果として、摘発される筈だと考える。
正論が正義だとは限らないということ
#自粛警察 を考えた時、私の心の闇と、源は同じではないかと思う。正論を口にして、正義を語るなら、その行いは正しいのか? そうシンプルに考えた時、少し違ったものが見えてくる。世の中のルールに照らし、それを逸脱したものを、手軽に画像や動画に納めて、正論とともに晒しものにする。この行為、最近ではメディアもそれに相乗りして、大騒ぎする。食い逃げ、万引き、賽銭泥棒、あおり運転。被害者がこれを公開するのは理解できるが、これを自分自身が、裁くもののような立ち振る舞いで晒して弾圧する。行いは、確かに許されない行為かもししれない、けれど、こんな世の中はどうなのか?
推定無罪
罪は罪、罰は罰 として 民衆が スマフォとSNSにより、ジャーナリズムになり、警察になり、司法になることは、考え物だ。違法行為は、被害者の訴えにより、法で裁かれる。晒すなら、晒す側のモラルともひっ様だ。法律は合理的だけれど、無理もある、 #推定無罪 その原則が守られるのはとても難しいのだ。
正しい行為とは 私の物差し
犯罪の抑止 犯罪の防止 結論は難しいからこそ
私は、一つの基準を課した それは
自分を含む誰かが、明らかに損害を被っていて、その行為をすることで、救われる可能性のある、人、モノ、コトが存在する場合にかぎり、声をあげること。