“私”が見えていない
月曜日のlivedoorブログの方が、ぼんやり頭に浮かべていたものから完全にズレていってしまったので、こちらに少しそれを書いておきます。
人は、「その事」の詳細を忘れていても。
いや、実際に「そんなことがあったねぇ…」という情報は、記憶から引き出すことはできるのだけど。
行動という習慣として”一体”にしてしまえばそれは、わざわざ言葉にしなくとも自然な行為として現れる。何かを判断・選択する時に無意識でその流れで行っている―――。
若い頃、営業をしている時に、「社長の友達は社長」と教わった。”トップアタック”で飛び込みをするという事も奥の方に記憶として残っている。
”コト”は昔の話で、それを引き出して展開する話も特にないし、それ自体にも関心がないけども。だけど”「流れ」というのは少し頭の中に、自分の行いの”無意識に”意識されていると思う。
これは営業の話をしているわけじゃないし、したいわけでもなく。事の動き、流れというものをうっすらと思い出したからそれに触れようとしたもの。
それによって”コト”で大成功というストーリーもとてもおもしろいけども、アナザーストーリーとしての「SIDE”B”」は、普段・全般という大きな括りで使える”考え方”。
自分が”上がって行かなければ”、そこへは手が届かず、更にまた別の扉を自分の中に開いていかないといけないかもしれない。上がるという表現は「工夫」という言葉でも良い、アプローチをかけるのは「自分側」という事を表現したいだけ。
人へのアプローチを少し触れておきたいと思って、何となくどうしても挟んでおきたかったオハナシです(*^^*)
「人は素直にそれを言うことができない」という様な事を一昨日ポストしたのだけど。
そして、それに関連したことは以前から「距離」として頭の中にぼんやり映像は上がってきているのだけど。なかなか的確な言葉が見つからなくていつもの様に放置…。言葉で表されているそれが頭の中で「映像に還る」時、今のところどうしてもソレしか見えてこない―――。
“私”の死角。一言で言えばソレだけでしかないと思う。
例えば、私がまっすぐに立っている状態で”正面”を見つめている時の私の「足元」。正面周辺はしっかり明るく、努力することなく視野に収まっているものを見ることができるけども足元は見えない。
私の足元は「(実際の明暗でなく)暗い」。想像できない・見当もつかない「暗さ」がそこにあるという映像。とにかくこの事がくり返し頭に映像として浮かぶ。正面をしっかり見れば見るほど、この足元周辺はまったく見えやしない。
このnoteを書く前にラジオを録っていたのだけど。その内容の時にも感じていた、「どうして”そこ”を見るんだろう…」と、主人の目線がしばしば気になっていた。
もちろん私もその状態になる事はあるので、他人事ではないけども、”主”が「私」でないことの多さに、とても驚くことしばしば。「主人の”私”は、どこへお出かけしてるのだろう…?」と思う。
で、この事は、結構とてもおもしろいし深いことでもあって、人は自分が発しているから”私”と当たり前に思っているだろうけども、かなりの「主」を「誰か」にしてしまっている事が非常に多い、というもの。
そこに入り込んでしまっている時というのは、”誰か”になっているという自覚はまったくなく、ただそこに見ている、見えているものを話すので、”私”の状態を把握できない。この訓練(切り替え)などを、私たちは教わっていない(?)のかな。
元々は、本当に純粋に、ただ「私はーーー」ということを発すれば良かっただけだと思うのだけど、段々と?その”こと”の中に自分が入った状態になってしまって、その”対象”を語るようになる、という事なのか…。いつの間にかヤンヤヤンヤと他者を自分の”主”の位置に置いている時間が多くなっている。
私が過去、ブログを書き始めた頃、書いたから分かった、「私は主語が”主人”になっている事が多い」と。
分かっていて、エピソードとしてただ使っているなら構わないのだけど、その時の私は書いて客観したことで「そうなっている」事に気づいているので、それまでは無意識でやっていたというもの。
誰某が・・・、元々そういう話があまり好きでなく、だけど私の中で使う主語が”主人が”が多かったので、少しずつその事をきっかけに意識するように変わって行ったのかもしれない。自分から”遠く”離れたそこはとても見やすいのだけど、この一番近い”私”のことは、直視しないとこの足元すら暗くて見えない。
気づけば少しずつでも視線の向きなどを意識的に替えることができるけども、殆どはその状態にある事に気づかないから、当たり前にそんな事をしてしまうのだと思う。
「私」という人物なのに、なぜほとんどの内容が「他者」なのか。
自分の中に”私”は不在で構わないのか?
他者によって自分の感情が不必要に起こされてしまうのは、引く所でしっかりと引き切らない状態があるからだろうと思う。できるだけ、少なくとも揺れる時は、自分の中の私に留まる時間を増やした方が落ち着きが早い。
本来「自分」に対して多くの時間を割くことが必要で重要だと思っている。そしてそれが「他者を知る」ことにも繋がっているという事を、明日に広げていきたいと思います。