予定は予定でしかない
「あ~、ねぇ!・・・」
『あー、こんにちは(*^^*)』
「昨日のさぁ、あれ。主人に話したらダメだって…。ごめんねぇ。もうホントにうるさくてヤになっちゃう。ストレスが溜まって仕方ない(*ノωノ)」
『ストレス…、そんなに溜まっちゃうんだ?そうかぁ…』
「うぅん、もうホントに…」
一昨日の停電。
東電へ問い合わせたチャットのやり取りで、およその復旧時間が判ったから、そして広域という事も判明したため、外に出て少し近所を歩いた。
その時奥さんが外に出ていて、暫く立ち話をしていた。
「あのさ、回覧板。インターホン鳴らさなくて良いから、ここに掛けてくれれば…」
『あ、いい?ここは雨も当たらないし掛けておくだけの方が、私もわざわざ鳴らさなくて助かるんだけど、放置になると困るから鳴らしてたから…。じゃあ、必ず一日に何度かは確認するのね?だったら良いわね、助かるわ(*^^*)』
「うん、何度か見るから大丈夫!」
私より大先輩方の多い住宅地。活動時間帯が私と違うので顔を合わせることもあまりない奥様だけど、回覧板を回す先のお宅で、たまに会えばボチボチお話はしていた。
夕方に差し掛かる頃の停電で食事の用意など困る人たちがいるかもしれないと思って、少し外を歩いたのだけども…。
会話中に「あっ、そうか」と分かる。
「ウチは、みんな作り置きしてあって電子レンジで温めるから…」
『電子レンジ使えないじゃない?』
「蒸せば良いでしょう…?」
(あ、え?蒸すって同じく火を使うよね…。あ、ガスか…)
『そうか、そうだわね(*^^*)』
”電気ばかり”というのは、停電の時には絶対に困る。蓄電池があればまた別の話だけども。こういう時、ガスが使えるのは当たり前だけど本当に助かる。調理の事を心配しなくて良いのだから。
まだ復旧時間が見えない時、一瞬で色々を考えた。灯りの確保、ワン達のご飯、そしてカセットガスコンロを出すか…など。網戸にしている部屋でも扇風機がなければ、部屋も暑く感じた。
後に、その事も解消されて、こういう時は本当に安堵するのだけども。過去に経験していたとしても、”緊急”への対応は抜けるものだと実感していた。
そんな会話のあった翌日。
きっと奥さんはそれを伝えようと、私が犬の散歩に出るのを庭で用事をしながら待っていたんだろう、と思った。奥さんはご近所でも、あまり話をしている姿を見たことがない。
「あ~、ねぇ・・・」
『あー、こんにちは(*^^*)』
始めは、また”キウイいる?”とでも言われるのかと思った(笑)
『あ、そう。うん、わかった。じゃあ鳴らしてから掛けるね。教えてくれてありがとう。助かる』
こういう時きっと、”申し訳ない”なんて思ったりしてるんだろう、と想像する。こっちはそれを何とも思わなくて、寧ろ”ちゃんと言ってくれる”という事に、私はとても感激するのだけども。
重要な短い会話を済ませて散歩に戻った。
その後のことは、私から聞く必要がないと思っていて放置していたのだけども、主人が仕事の話をしてきたのを機に思い出され、訊いてみた。
『あの話はされたの?』
「あー、あれは、オレ的には”ない”と断言できるかな」
会社と客先の間で、運賃や条件が一致しないようで、大型車での配送は見送りになった様だった。
「来月から時間帯が一斉に替わるみたい。朝の出勤になるから帰りは大体…。だけど日中は渋滞があるから、結局は拘束時間は今より長くなるだろうと思うけど…」
うーーん、実に変化が目まぐるしい(笑)
朝からの配送になれば帰宅時間は当然早くなる。だけど同じ業務をするのに、時間帯が変更になるだけで拘束時間は長くなる。もうこれは仕方ない、と現時点では思ってしまう。業務ではなく、道路事情はまた別の絡みの話だから(交通量の多い時間帯は渋滞にハマる)。
だけど、私の中だけでなく、主人の中にも”同じこと”はきちんと考えられていた。
「別に、他を探しても良いわけだからね」
それは、いつでも可能だけども、今年はもうあっという間に年末に差し掛かる。その中でこのタイミングで動かなくても様子は見られるだろう…と思いながら聞いていた。
『そうだね。自分の条件とどこまで合うか、”許容できるか”って事だから、ムリヤリそこにいる必要もないからね…』
この主人の話のことだけでなく、いつも思っている。
何かをしていく時。
それは、この自分が”やる”のならば、必ず自分が軸でなければならないと思っている。その上で「何か」という他のものに加わるという事になる訳で、それは比重を変えてはいけないと感じている。
それを変えてしまうから、ソコという事が”メイン”になってしまう訳で、あくまでもそれを行っているのは「自分」という軸だけは変えてはいけない。
そして逆に。
この軸をいくら自分のままに保持することが許されていても、それを「他のもの」への基準とすることは全く意味が違う。
こういう事の見えない部分での公・私という、切り離せない世界の中で、軸の移動や領域への浸食具合など、様々が溶けだしている難しさは常にあると感じている。
・・・
『どれが本当の自分か、分からなくなった…』
20年前、”自分の様子がおかしい”ということを感じていた私は、うつ病になる前にその様な感想を持っていた事を憶えている。
今より全然、「白黒」ハッキリとしている、好き嫌いの明確だった私でさえ、営業で”客に合わせる”ことばかりしていたら、自分を見失ってしまった経験がある。
もちろん、うつ病は「認知の歪み」が影響しているのは一因でもあるので、私は、「白黒」自体に問題のタネはあったわけだけども、ネット環境は今よりはまだ盛んでない(私がそんなに関心がなかったとも)当時は、冊子や新聞などの読み物から、「認知を変えることが必要」と知り、”今までの自分”を大きく変えていた。
更に、現代風にここへ言葉を足して書くなら、
「認知の歪み」というのは、「いつも同じ方を見るから、寝グセの付き方がそうなる」という様なもので、寝方を変えれば、その寝ぐせにはならない、という様なこと。
”同じこと”をくり返せばクセも強くなるのは理解がしやすい。
思考というものも、私たちは自分で選んでいるようで、いつもの同じクセ(パターン)によって「自分自身に選ばされている」ということ。だから、まだ気づいていないその他の沢山の「向き」があることを知っていくという事が、歪み=一方向の強調の緩和・解放、になる。
色々な人を見る(観る)ということは、自分のクセを知る機会を多く持つことに。結局はまた”人”に繋がるわけよね(笑)