感情を感じないって…?
今までの”メモ帳・メモ”などの羅列祭りで参ります。
過去の”ヌボータイムの内容”が多いので、書いた記憶はあっても内容の記憶はハッキリしていません。(書いた当時は「意識があって書いている」という状態が特徴です)
また、普段なら”顔文字”をよく挟むのですが、自分でこうして書いていて「気分がそうでない」事はハッキリしているので、文字だけで並べていきます。”一致”してないと気持ちが悪いんですよ、やっぱり(;´・ω・) ツッテ、ツカッテルジャン。
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私は今までに何度か「自分は大ウソつきなんじゃないか」って思った事がある。
”大ウソ”というのは、大きなウソというより「人生を賭けてウソをつき通す」という意味の一生をかけた大きなウソ。
今でも問う事がある。
真実の私、誠実な私でいるのか?って。
問う度に
ウソつきかもね、という自分と、いつだって真だね、と返す自分がいる。
どちらも、どちら側もワタシだよな、と今の所は思っている。
見える世界だけで言ったら一生”ウソ”をつくのかも。
【大ウソつき女】なのかもしれない。
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自分の優越の為に書くのは、私の目的としていいと思っている。
ただそれと、僅かでも思っている、”人に伝えたい”という思いとは、表現の仕方がミスマッチ。
・「伝えたい表現」じゃない(自分優先だから)
・独特になるほど、”伝えたい”は消さなければならない(…本当に伝えたいのか)
この「伝えたい」は怪しい。教えられるという傲慢。これ一つにしてもこうしてゴロゴロ出てくる。
・・・そうか。当初は「自分の在り方を見せる」だったから。思考が変わって、行動が変わってなかった事によるズレ、違和感。ちゃんと感じて、行動は修正される。
傲慢するにも受け止める人がいなければ出来ないと知る。
全て、何も、相手がいなければ達成ができない。(”受け止める人がいない”とも感じている、これも傲慢 笑)
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ウラ というのはシビア。
だからその面を隠してオモテで緩和している、
とも言える。
ウラ はいつも真実とも。
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ふと。
”人を信じる”じゃなくて、”受け入れる”じゃないかって。
○○(主人)の、あの時の決意(意思)を私は、今思い返すと、”信じた”というニュアンスで思い出すけども。信じる/信じない、は期待が必ず入るから、自分への衝撃も必ずあるんだな。
受け入れる事は覚悟する事。もっとオオゴトで真剣な感じがする。逃げ場のない追い込みーー。
”信じる”は、比べてキレイで自分に逃げる余地もある。そんなケースはそうある事じゃないけども、どこかで自分を逃がし、○○を深いトコロで責め?、
”止めておけばどうなってたかなー”と、そうすればこんなにならなかった、みたいな、思いを少し感じたり…。
って、色々過去を振り返る事(自然な行いとして)があるけども、何度か思った事がある。
あの時の言動は真実で、今振り返ったこの思いも真実、で私。
そして書いていくと、
あの時の言動も、この振り返りの思いも、時が経過したらそれはもう、真実なんかじゃない。
こーだったかも、あーだったかも、的な「今、その時」にいない自分はそのシチュエーションで考えた、私のアタマ。
それは私でありながら、私の心ではない。
記憶という別もの。組み合わせたもの(かもしれない)。
その時に感じたもの、選択だけは私だった。
だから、永遠の私は、いつもいない。
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”支配関係”がなくなり、というか、自分(私)がしっかりバランスを取れるから。
その事によって、支配のような関係性は解消されるという事。
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頭をお腹いっぱいにすると満足してしまう。
やった気になってしまうから。
頭が満足した状態なのか、実行・実践したのか、
確かめよう…。
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予告か、放置したから同じ事が起きたのか、はどちらでも良い事で。
要は、やってない「未」だから起こる、という事。
という事は、人生に起こる事は、「未」であれば繰り返されるんだね。
卒業しないといつまでも繰り返される・・・輪廻みたいね。
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【心だから移ろうし、頭だから固まる】
雑じり合わないし、どちらか…、頭で決着させてしまう。どちらだって良いんだよ、今まで通り。頭の働きが悪ければ、悪いなりに時を共に生きようや。
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昨日主人に言われて、今日が記念日と気づく。
「そうだね、じゃあ、買い物の日にケーキ買いに行こ!」
主人にそう言った。今までと同じように笑いながら伝え、同じようにここへ言葉を書いてるのよ。
でも、ここに私の”喜び”という感情は、ゼロじゃないけど弱くて瞬時に消える。”実感”が薄くなっている、ともいうのかな。この変化が凄い。
(あ、なるほど・・・そうか。
普段は眩しい、明るい気持ち(喜び)がいるから、裏方は目立たないんだ。
いつもあるんだけど、いつもと同じなんだけど、“しゃしゃり出た”じゃなくて、明るさが消えて引き立ってくれてるんだ。
強い訳でもなく、ただ明かりが消えたから浮かんで見えてる。”裏方”というのはあくまでも対比した表現だけども。)