観察が会話の手段?
この2~3日。
私のアタマに足りる程の睡眠が確保できず、夜には眠くて”舟を漕ぐ”状態になっていたのだけども。
生理も重なり、きっと余計に身体はエネルギーが満タンでなく、眠さもキツかった。しょっちゅう生理と書いてるような気がして、それだけホルモンバランスに左右される日々がある事は、毎度のことながら痛感する。
いつもより楽に感じる状態はあるものの、ちょっと「気持ち」をどけたら、しっかり「身体」がそこにある。きちんと身体はその状態を訴えてくる。
調整する所はあちこちあるから、気に止まったら都度対処。
先日、ある夢を見た。
夜の就寝中の夢は、夏シーズンは睡眠時間が短くてあまり見ない、と先日書いたのだけども。
この時は私の夢を見るタイミング的にも珍しく、眠ってあまり時間が経っていなかった事を、一旦目を開けたので判っている。
夢自体はカンタンなもので、どこかで火事で、それが近く感じてリビングの扉を開けた(確認しようとした)その瞬間、ブワッとすごい熱を顔に感じて、すぐに扉を閉めた。そう感じると共に、そこのウチが燃えているのを、ガラス窓の色からこの目で確認していた。
2階にいる主人に知らせようと声を出して呼んでいた、というようなものなんだけども、その時の強烈な印象が「顔に感じた熱さ」だった。
この時はエアコンが入っていて、部屋の環境はそういう事ではない。私が驚いて目を開け、夢の内容をから確認したのは、「ここ(この”顔”)が、炎の熱さを感じていない状態で、確実に”感じて”慌てて扉を閉めていること」だった。
夢の中では事実、この顔に熱風の熱さを感じて、驚いて瞬時に扉を閉めているわけだから。
この時は、少し顔に被せ気味にしている夏掛け布団の影響も考えつつも、殆どを「脳のでき事をここまでリアルに感じるものなんだ」と捉えていた。(いやいや、すべて脳内で”見ていた”わけですけども)
感じる、ということも”幻”とするかどうかは、、、「実際に顔が熱かった」と、確かに”感じて”いるのだから(*^^*)
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言葉から外れたモノが観えた。
シンクロ―――音でも起こる。
”超を超えて”としたら、”兆を超えて”がやって来た(笑)
この世の時系列で言ったら、世に出た時刻は後先は逆になるけど、「私目線」でコトを捉える時、シンクロにそれは関係ない。私の中の”世界”だから。
シンクロに関しては考えるのが好きで、今までも面白いと感じるたびに結構触れているのだけども、私はシンクロにも幾つかの”種類”があると思っている。
人が捉えた(と思われる)事による反応ということのシンクロ、私はこれを”人工シンクロ”と言うのだけども、逆に人の意識の殆どあまり被らない(入ってないと思われる)シンクロというのがあって。
はっきり言って、全く互いに(内容を)意識していない状態なのに、確実に同期してしまうという事がずっと続いている。人の意識側で”意識されている部分”があることは分かるのだけども、そうでなく、確実に”そんな所”という部分でのそれ(無意識部分)をみると、脳内の同期状態は距離に関係なく確実に起きている、ということを目にするたびに思っている。(これを相手の方が気づいていなければ、余計にOK)
これら両方を”見ている(読んでいる)”人がいるならば、既に気づいていると思う(笑)当事者以外に気づいていもらうのが一番”正確”でいい。
そして、人工シンクロと上記のシンクロの間に位置する(かどうかは分からない)のが、抽象度を上げたその”場”でのコミュニケーション。これも”タイミング”がとにかく合ってしまう、という様なことは散々ある。
(以下、シンクロというより、”コミュニケーション”の方へ比重が移ってしまった)
以前に触れたけども、これは具体的なことで捉えるのでなく、一度グーーッと抽象度を上げて、その位置で”揃った・揃えた”ことから、別の内容”具体”へ落としていくというもの。これを「言葉のやり取りをしない本来のコミュニケーション」という様に私は捉えている。
”言葉のやり取りなし”の意味は、通常なされるコミュニケーションとは、言語を用いて、双方が理解できる共通の内容、具体的である「層」を揃えたものの中で起こす事だと思うけども、これは、この見える”層”を揃えていない空中会話。接点は”抽象的な空間”にしかない。
言葉を使っての会話を当然とする現代だけども、それ以前も”やり取り”というのは、当然行われていた訳で、全てある大きな所で”捉える”という「同じアタマの使い方」をしているもの、と考えるている。
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「”音”でも」と強調したのは。
言葉の重ねを離れ、”音”として捉えたから。「音でも起こる」という書き方では、言葉が優先され、次に”音”という書き方になっているけども、確かに”捉える時”というのは、言葉に慣れたこの習慣からは、その様な”順序”になってしまうけど、本来の発生は「音」が先。
だけどその「音」だけでは判断するには幅広く、限定させることが難しくなる為、”言葉”によって特定させる。意味が明確になってくるから。
週に2度行う音声note。
これを話す時、”音”が同じで、補足を入れる時によく思っていた…。「音声は、一度では絞りが甘い」と。意味の異なる同音はいくつもあるから。
その中で、文字(漢字を言っている)というものは、その”字”自体にしっかりと意味を持たせてあり、また成り立ちもある為、それだけで理解ができる事も多い。
更にまたここに、その「言葉」に対して”人の思い”が乗ってくるので、明確を通り越して、今度は複雑になってしまう。
現わすものも、現れないものも。
私たちは基本的に理解・解釈をする時、自分の持つ「その面」から見えるものしか捉える事はできないから。言葉を交わさずとも、”同期”するまで観ている事でコミュニケーションは取れていくのかもしれない。