安全地帯は拡大させていく
6/3メモ
「お金を動かす」ということは
その”流れ”に「人」の想いを入れるという事。
自分の”想い”を動かす為(?)
その想いだけを動かせないのか(?)
6/7メモ
”思い込み”を事実として認識してしまう危うさ。
それを分解してみる。
6/15 (”私”と思うココロ)
私のアタマの中なのか、大自然のコトワリか。
必ず例外なきコトガラにぶち当たる―――。
”考える”という事はできる、という事が分かる。一体化し続けた”自分”、この「私」というものが壊れる時はいつもこうなる。
所詮パーツ。
様々な機能の寄せ集め。
そのパーツをどこに、どの様に繋ぐかに個性がある。
私という存在は、網目そのもの、壁そのもの。その結合が壊れて、大海に放り出される。
だから、分かるわけない。
どこへ、何にどのように、が明確に分かっている訳がない。
ただその時は力まずに、ゆらゆらと泳ぐ、クラゲのように。
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パラパラとめくったら6月のメモがおもしろかったので、特に意味もなく載せてみた。
6/25メモ
運ぶ、動かす。運動(エネルギー)
『本当の力を奪う為、
仮初の”力”を手に入れる』
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主人と運送(運搬)の話をしている時だった。
主人は自分の仕事の話をツラツラとそのまま話していたのだけども、私には”背景”が捉えられていて、主人の話す表の「音」は消え、視える背景側のこのメモしか記憶にない。
主人はメモ内容の言葉を1つも言っていない。
その言葉が現していた、そこから見えるモノに私の意識がフォーカスするので、全く別の言葉が立ち上がってしまっている。
6/25メモ 自分自身の”縛り”
オモテの意識とウラの意識と。
意識の上・下をくり返すから、縛り、習慣、今までのパターンを崩すことが出来る(可能)。
価値観がどんどん崩壊している。
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同じ状態で安定している事を普通と感じ、その状態から外れる事を私たちは嫌うし不安から恐れになる事もあるけども、波がない事はまずないと思っている。
ただ大きな変動はやはりあまり慣れないもので、事によっては避けたいことでもある。
メモは6月のものだけど、この内容を最近の事から感じる事を加えてみると、この「いつもと違う何か」というゾーンにいる事自体が、”安定”から外れている状態なので、”自分”の外へ行っているという証拠だという事。
今までと異なる何かに遭遇するという事は、そういう事だと理解している。特に、今年の傾向としてはとても良い運びになっている、と感じている。
分かりやすい言葉を使ってこの状態で感じる事に触れてみると、気持ちの上では前進の気持ちがあっても、”身体”というのは、ちゃんと静かな抵抗をするということ。”抵抗”というより、更新されていない古いバージョンの習慣のままに、身体に記憶された”一体”はあるんだな…、と。
気にしなければ気にもならない、意志について来ない微妙な”身体の存在”はいつもあるのだと思っている。
意志が動けば動くほど、動くようになる程に、始めの頃の身体は”重く”感じるかもしれない。そこも、くり返し意志との乖離を解消させていく事で、段々と”身軽に”感じられるようになるのは、そのズレ幅が狭くなるからなんだろうと思う。
自分の中のすり合わせが、とても大切。
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分からない事、不慣れなこと、というのは、人にとって快適でないので、今までの感覚で捉えると「よろしくない事」という風に捉えてしまいがちだけども、「初め」というのは、大抵そんなものなので何かを判定するには早すぎる。
そもそも判定しようとする事も、自分を不快から守る為でもあると思っている。
外の世界での調和、自分の中での調和。
特に、自分の中の調和はこの自分自身の中で起きる事なので、必ず目を向けることになるよね。まさか身体と意志がズレているなんて思いもしないし、でも動き出せば何らかの不都合に出くわしたりと、やはり動き出して初めて具体的になる事が多い。
当然ながら、動かなければ分からなかったことであって、何かに出くわすという事は、動いたという事実があるという事だから。そして、思っていた事と”違う”というのは、正に「予測と違う」という真実そのものなので、「予測を越えられた」という事を喜んでも良いのかもしれないよね。
そういう所からも、私達は今までの予測がまかり通る「予測の範囲内」に収まろうとする傾向がある事も見えてくる。
自分自身の習慣から来る、安全地帯を守ろうとする事による、”引き戻し”の注意は、自分にも向けてみなければいけないのかもしれない。