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未来へ引く力強さ

かつては、「人は知っている」という様なことを言っていた。

もう既に明確な表現を忘れているけども、内容的には、「人」という存在は、何かをしっかりと学習しなくても、ソレというのを知っているんじゃないか、というもの。

もちろん、「知っている」という表現と結ぶためには、その元となるモノが存在しなければならなくて、そうでないと”知っている”という表現は永遠にできない訳だけども、そういうことではなくて。


例えば過去に書いているのだけども、私は”仏教”というものの何となくの教え(?)というのは知っているような気がするけども、それを学んだことはほぼなく。

数年前の1~2か月、動画を視たことはあるけども、それで何かを身に付けた、なんてそこまで図々しくはなくて(笑)、”ほぼ知らない”と言って良いレベルのものと思っている。

だけど、昔からある神や仏という何かその「存在」という考え方は好きのままで自分の中に残っているのは”事実”ある。


その上で何かその、俗世から見れば特別なような空気感と考え方という事を意識し続け目指したものでもなく。瞑想というもの自体も”通常のやり方”で行うことも殆どなく。だけど。

外の情報に目が止まった時というのは、「その(言われるような)状態と一致する」という風に感じた時に、冒頭の「人は知っている」のではないか、という風に感じるようになった。

そのかつての状態よりも更に、現在に意識している事はなく、他の外の情報と同じ様な”位置づけ”として自分の中にあるように思っているけども、もしこの様に感じることが”本当”だとするならば、これは「人」というものが、誰でもこの「中(内側)」に、その様なものを抱えていると言っていいんだろう、と私は思っているから。


それは。

何が言いたいかと言うと。

何か、特別なルートがあるという事ではなく、人が進んで行く道の先には、同じ所へ辿り着くという意味であって。方法手段が変わっても、結局同じ所を”表現”していると思っている。

それを昔の偉人たちは、アナログで手繰っていったのかと思うと、何か、すごいな…というため息がもれそうになる。フ~~。(ア、モレテル??)

そういう「元になるもの」がある事で、後世の私たちは照らし合わせることが出来る。元がなければ、そこから両方やって行かなければならなかっただろうに…。


10/25メモ

よく、”フォーカス”の話をするけども。

「それ」というものに自分の焦点が合っている、ということ。

それはつまり、ソレというものが「見える」ということ。フォーカスしていないものは「この目に見えていない」という脳のハタラキ。

その、例えば小さな焦点一つ一つの連なりという「自分の目に見える世界」というものは自然に創られていて、自分がそれを意識するとなしに、いや、ほぼ絶対に無意識でその空間に放り込まれているという事に、私たちは気づけない。


だって、脳の中だもの。どうしたってこの「自分」が閉じこもる訳がない。そんな中に収まるはずがない―――。

という「逆」ね。

私たちはずーーっと、逆に居て、その「逆」を見ていた。それは実は、逆❜にあって、その逆❜の世界開くことを殆ど知らなかったから見えなかった。

そう考えてみたらどうだろうか。


10/26メモ

そして―――。
”土用ミラクル”、とその時感じた。

今までもソレは見ていた。ちゃんとこの目に見えていた。だけど、同じように正面から見ていたのに、”見え方”がまったく違って気づいた、「・・・、なるほどな、こういうことかな」と。

多分うっすらと、他の事象は集まり始めていた。だけどボリュームが足りず、その時点では「何」のことかが不明。でもこうして一気に見え方が変わった時※に、それらの”うっすら”の集まりが、その一部だった、と感じる。

※変わったというのは、完全な切り替わりを意味していなくて、先ずその時点では、その目線で見えた、ということ。そしてその目線に気づくことが後のモノの見方に加わるという意味。

「そのコト」を言わずに現わす。というのは昔から口にする人もいて、それ自体は初めての理解ではないけども、見るとなしに暫くの間、ある表現・ヒョーゲンを眺めていた。

それが、「確実な効果の現し方」なのだと、浮き彫りになって視えた。

もの凄い技術だと感じたし、くり返し行われるその反復によって、こちらの臨場感をしっかりとココという場所からズラしてくれるテクニック(と、私は感じた)。これは素晴らしいとしか言いようがなかった。


私は、”言葉にすることの弊害”という様な甘い、まだまだ十分に”分解可能”な「表現」をしていたけども、言葉(表現)にしながらも、これだけソレを伝えることが可能ということを、心底感じた。

同じように表される、この平面上に並べられる言葉を用いながら、ココという場所にフォーカスしないように”この場”を思わせる言葉を一切使っていない。かといってかつて散々目にしてきたふわスピ系のふわふわ感はどこにもなく、力強さだけがそこに視える。

テクニックとして「すごい」としか私には言いようがなく(←オイ、ゴイリョク)、これが視えた時心から感動した。

この「感想」が私の強く感じた「こういうことか~」であって、ここから私自身が、自分によってどのような言葉を使って表現して行けるか、という事を考えるきっかけになった、と感じた。


10/27メモ

今までのそれと実感が違うのは、意味が分からない表現を使うのではなく、この現実に即した表現で行われているということに。

単なる感性の違いとも言えるもので、良し悪しではなく、

「どこから投げているか」

という事が言える。

どこ=自分の状態

どの状態を自分に置き(意図的または無意識的に)、それを外側へ出力するか、という事。

”自分の状態”としつつも、これはもちろん”他者”への影響を考えての「目的」によって、こちらの状態(自分の置き場所)を変えているとも。

どちらにしても、感動する。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!