”本ちゃん”、そりゃそうだ
大体そういう事が多いのだけども―――
連日主人絡みのエピソードを書きながら、その奥で同時進行しているある意味そちらが、”本ちゃんストーリー”ってわかる…、出力した後の、例えば付けたタイトルを見て、例えば内容の一部をふと思い出して、とか。
”本ちゃん”とするのは、エピソードは主人のことだから「他人事」としてこちらは観ている側として当然書いているのだけども、出力後の目にする読み取り(入力)では、外にある情報としてこの”私”がそれを観る自らに対しての客観状態ができるから。そこには「私が書いた」ということは抜け落ち、もうそのままに外の世界の「他人事」として目に映ってくるから、”私”の中と照らしやすくなる、という仕組み。
で、いつもいつもをそんな風に過ごしていると疲れるだろうし、気づいた時にこうして「そういう事なんだな…」という事を書いているのだけども、主人のその事・状態を書きながら、「私自身のそういう所も気をつけて下さいよ」という様に、自分へ入力することができるしっかり”自分事”である。
他者の、当人が気づいていないそれを、観ている私が気づいて何か必要に応じた態度をとる・発言する。それは確かにその時主人に対応しているのだけども、時間を置いて観れば私自身にも言えるところがあることも明らかなので、「…そういうことか」という理解になる。
人は、他者がいないと生きて行けないんだよね、この自分自身さえも分からずに他者から教わっているんだよね。
先週、少しメモしていた事を思い出していた。
フォーカスーーー「その面を探す」
この言葉・状態自体は、何ら変わった言葉でもなく、聞き慣れているところもあるし、当たり前のように表現として使ってきた。それが先日。
単にそこにあるもの、見つけることが容易なその並びからの焦点、という様に思っていたそれが、この時はまったく違かった。例えば「夏の中に秋を見つける」そういう事か、と肚に落ちた。
実際に分かりやすいそれというものの殆どは「夏」かもしれない中で、「秋・秋っぽいもの」というところを探し出してみる、という事が浮かんでいた。そうなんだ、そういう事なんだ…とヒョンな所からスッキリした感覚があった。
この事は他のケースでも、色々な面を見るとか、悪い面でなく良い面を見つけるとか、似たような表現は多くしてきたと思うのだけども、これらも同じように「そこにあるもの」の中から見るというニュアンスで使ってきていて、今回のそれは”探す”というニュアンスが非常に濃くなっていたというものだった。
で、これになんでこんなに自分が驚いた(少し感動した)かというと、そこには自分の”意志”を使えるように思ったから。あるものはただあるので、”見方”を工夫すれば見られるというニュアンスがあったけども(私的に)、これはソレというものを先に決めて、ソレに関するものをこの世・世界から強烈に引っ張り出してくる(観る)、という様に感じたものだから。
よく主人が、「イヤなことの方が強い(強烈)な印象がある」的な言い方をしていた。良いことは心地よく、さもすればこの自分自身にその評価すらされずにサラッと通り過ぎてしまう。それだけ自分の中に摩擦が起こらずに流れて消えて行ってしまうのだと思う。
人の世界は、自分1に対して圧倒的多数の他者なので、自分の「快」から見れば、そぐわないものが殆ど…、イヤなことの方が多いかもしれない。逆に言うと、その大多数の中にほんの一部を”私”として保って生きているのが自分という存在かもしれない。
もしかしたらそんな「敵」かもしれない多くの存在・環境の中でも、ほんの少しでも美しいもの・素敵なものを拾い続けたい(表現変えてます笑)という在り方は、フォーカスしていく力として重ねてみえた。そういう姿勢って素敵だなと。
少し違う角度から書くと、人は外の事にどうしても引っ張られる、反応が出てしまうものだから、これを自分の中でコントロールしていくという事なのだけども、それは決して自身を抑え込むことでもないし、全てを理解し吸収していくという事でもないと思う。
誰かがそれができたとしても、自分ができる必要はないし、また自分は別の違うことが多く出来てしまうなど、どこまで行っても自分と他者は違うものなので、最終的に何かを決めるのは自分という事で間違いない、自身の事において。
何かへの反応(反射)より、少しずつ自分の意志(意思)を使って焦点を変えていく―――、その割合を変えて少しずつでも”私の想い”を増やせた者に、「美しいもの」はたくさん見えるのかもしれない。
信じていけるということは、そこに強さがあるという事だね(*^^*)
主人が自分自身の人生の主役であるように、たとえ私が近くで主人のエピソードを語っていようと、その主人及びエピソード込みの「私」が主役の人生という事でそれを抱えていることになる…つまり”私”が自分を語っているに過ぎない”本ちゃん”。
それを含んだ私の人生が始まっているという、主人の新たなスタートとともに、私もまた始まっている。人はエピソードに持っていかれやすいけども、これは”他者”のそれであると同時に、エピソードから抜けてもう一つ外側の”私”に入れる(戻れる)内容。
人って、本当に色んな空間を飛び回っているんだと思う。