私の中にあるもの/ウチソト
”その事”の内側に在る人か、否(外)か。
自分の状態(内側)との結びつきで、その事の範囲の人となる。
内と一体となりその中にある人 )←それを見る人(外側にある人)
意思がまだ傾かずに、”分からない”というだけで”外”にある人、そこが意識されている状態で、●の表現になっている部分。以前に表現した「右辺/左辺」という完全に”反対”に映っている状態にあるものは、簡単にひっくり返ったりしない。変わるのは、そもそもその傾きが弱いor傾けていない状態にあるもの。
まだ何も、強い思いや思考がなされていない状態から、意識を引き出すようなことになる為、注意も必要。それは「こちら側の」意識に注意が必要。無責任にはできない。
一昨日の中では少し書きにくいと思ったことだけども、確かに「言葉の意味その中」に思考なくそのまま入ってしまう、また後に思考することもなくそうしたままにする、という人々も事実いるので、”技”なんていうものがそもそも効かない「表面の反応」だけの層もあることは事実。
それもそれとして、説得する方向でなく、空気、流れが変わることへと流れていくのだから、その自然な流れに乗れば良いわけなので、人を説き伏せるという様なことは必要のないこと。
理解されたものは、動きに移ってくるのは自然なことだし、それが目立つ目立たない関係なく、いつの間にその様にという中であれば、余計な摩擦も少ない。
何でもどうやっても100/0にはならないのだから。だけど少しずつでもやらなければ流れが変わることもないのだから「やる」。
無意識、その事の前提は、言葉になくとも必ず現われている・くるものだと思っている。
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人って、自分という一人の中で自分の言動を考えているのでなくて、他者のことがしっかりと無意識に意識されている。そこは考えるとなしに「そのように」している所なので、自分がその様に動いている事さえも分からないかもしれない。
何か、対象を自覚なく意識されているから自分の言動が決まる。その環境・状況にこの自分を”合わせて行く”という事を無意識にやっている。
そこから考えると、”人のとる動作”は、いつも同じ選択をするとは全く言えず、それは時に一貫性もなく見えるのかもしれないけども、人によっては、環境によって変わっているだけかもしれない。
そんな、変わる人・変わらない人というものが、「外」という人の世界(社会)に一緒くたにいるのだから、そしてそれを”観る人”は、人に合わせて見るのでなく、基本的に自分の目(フィルター)を通してそれを見るのだから入り混じり解釈もマゼコゼの難しさがある―――
それでも。
時間をかけてでも静かに内側で理解された人は、静かに繋がっている。表の世界のように賑やかでも何でもないけども、人の、誰もが持っている孤独な世界、「自分の内側」に、他者が住んでいる。静かなはずの、たった一人しかいないはずのそこに、他者がたくさん住んでいる。
「誰かのために」
そんな意識もなく「そうしている事」が、しっかりと誰かのためにある。だけど、”誰かのため”に自分があるのではないので、自分はきちんと”ある”事が先。
順序が大切な事、その上に次があるというスムーズな流れは、存在すると思っている。順序を誤ったとして、補う(後でそこを埋める)ことはできる。ただ、”なし”にはならないものだから。
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「みんなと言いながら、内輪ばかり」
私はそう思ったことがある。
当然なんだけど。どこかに境を持っているのは当然のことと解っているのだけど。これを取っ払う事は難しいとは”思う”けども、在り方を示すことはできると思ったもの。括らなければいいのだから。
どんなジャンル、カテゴリー、分類されるもの、境界というのはあるけども、”○○だから”ということは、”みんな”を区別することに関係するか?というもの。
好き嫌いがあるから、その完全な区別をなくすことは私には出来ないと思う。だけど目指すことはできる。その事が今回の内輪という話のことにも絡んでくる。
内輪は楽しい(かもしれない)、それを見る外側は、どう思うんだろう…。
人には好・嫌があるのだから、自らの拒否によって外にあるならばそれは選択と思うのだけど、そうでない存在がもっと多くあるわけで、そこに内・外の、不要な境界はいらないと思った。
大人は子供に「一緒に遊んでおいで、“仲間に入れて”と言っておいで」と言うくせに、大人自らそうする事などあまりない…。言わない、言えないものなんだよ、難しいから。それを子供に言うんだよね(笑)
そういう時の”中”という場は、本当に純粋に祭りであって良いのだけど、そんな外のことなど気にする必要もないのだけど。
みな、とか、大きな範囲で目指したいもの(こと)があるならば、その境を感じさせてはいけないだろう、というもの。外から見る中(内)というのは分からないだけあって、アヤシく感じるのだから。
それを例えば、信者とかアホとか言われる様になるわけだけど、いや、本当にそういう在り方もあるのだろうけど。そうでない事は言葉で返すより、行いとして姿勢を見せることだろうと思っている。