その「外側」へ
昨日からの流れを引いて、少し書いて行くのだけど―――。
「人は、自分で願いを叶えることよりも、意外とかなり他者によってそれは叶えられる」
という事についてなのだけど。
初めに芯となる部分を書いてしまうと、「人にやってもらうのを待つ」という姿勢とはまったく違う、ということ。これは強調します。
あまり「願い」という言葉を使わなくなって、意識して”そう考える”という訳でもないので、説明のために「その状態」のことを表す言葉として使っているのだけど。
私が感じている事のままに書くと、あくまでも意識よりも奥の、向こうに置いてあるのは「その状態」という”感じ”であって、具体的な何かを思い描いているわけじゃないし、それは「分からないこと」なので、その具体的なことをどうこうするという姿勢は全くない、というもの。
自分の意識すら意識することなく、ただ「そうなる方」へ向けて進んでいるという「スイッチを入れた」状態。だから順路・道筋などは分からないけれど、(見えていないけど)”進んでいる”と言うそんな状態に意識を置く、という表現をする。言い方を変えると、起きてくる様々なことには対処しつつ、よくは分からない事も含め具体に留まることなく進んでいく、そうある(起こる)事の「肯定」でもある。
言葉は後付けなので、書けばかっこよくまとまった表現になるけども。その途中・経過においては本当に”キーーッ!”という思いになる事は散々あるのだけども。
その部分が結局自分との”闘い”でもあって、慣れないうちは、アレやコレやと思ってしまうこの自分を、どれだけ宥め黙らせ、癒したりしながら進んで行くかという騙し騙しの連続だと思っている。
そんな内側の”状態”がありつつ、少し現実側の”見える世界”の話を書くと。
それは「人間の世界」であって。やっぱり人間関係というものの事は、誰にも否定が出来ないものであって。ひとりで何でもできるとしても、やはり人はひとりで何もできていない…、必ず誰かしらが絡んだ結果に、自分が何かを手に出来ていると思う。
この部分が、「自分で叶えるより寧ろ、願いは他者が叶えてくれている」と表現する部分であって、この他者は人に限らず自分以外の全ての存在に対してのこと。見えるものだけでないハッキリとは見えてこない、掴めていない事を含めたすべての事。
この事から逆に、自分が叶えた(自分がやった)と自覚できる範囲というのは、もしかしたら小さなもので、コトの大小の優劣ではないものの、自分が何かを手にできる時というのは、多くの他者が絡み、それらによってなされた結果だという事だと感じる。
その事の理解が非常に大切だと思うと同時に、冒頭に書いた「だからと言って他者がやるという事を期待する姿勢では叶わず、待つ姿勢でもない」という、ここは本当にうまく出来ているバランスが存在していると思っている。
これは、この体験をした人によってあちこちで言われる”状態”でもあって、特別なことではないもの。だけど、それが人の想像を超える流れでカタチになっていくのであまり信じられずにオカシナ話としても見えやすく。体験者の事実としてしか通用しないデキゴトとなる状態。それだけ人は「思うカタチ」を漠然と持ってしまっている。
人は言葉を使って何かを発することが可能なので、その「言葉」を解釈・理解することが多いのだけど、その言葉の発信が効いているのではなく、内側の状態が効いているので、現実側のコトが動いていくかどうかは、大きく言ってしまえば関係ない。それだけ通常は、人の発する言葉と”その中身”には開きがある。
過去を振り返って見ても、主人のケガからの色々の事、会話を通して考えてみても、ある程度”分かる”所に来ると、分かりやすく「見える」という見え方をする、そういう感覚を持つ。(主人がコトを自覚しているという意味でなく、会話を通して私がその事を確認しているという意味)
確かに「始めに言葉」を発している。それは聞きかじりの、見聞きして憶えてきた「その言葉」として私たちは使うのだけど、リアル世界での体験を通してその事がそこにある事を何度も目の当たりにすると、言葉を注意するようになる、言葉の使い方が変わってくる。
自分の内側に変化も起こり、その結果に使われる言葉は、選択も変わるけども、同じ言葉を使っても意味も変わってしまう。自分の内側が外にしっかりと現れている事が鮮やかに見やすくなり、その事から「今までの自分の状態がどうであったか」という事も理解しやすくなる…、それは同時に、「これでは叶わない(いや叶っていた)※」を認める事になるかもしれないけども。
気づけることはチャンスでしかなく、”成るようになっている”という事の明らかでもある。
最近の主人と会話していて、よく感じるのは、「”あなたがそう思っている”その範囲外が、そうだという事だよ」ということ。
主人は「オレ」を主語にしての思いを口にする。外のモノゴトの「受け方」という場面で、”オレ”が登場するとオレの範囲で呑み込む(解釈する)ことになる。
少し気づき出した主人の現在の状態があるので、こちらは機会は逃さず「その範囲“外”ね」と軽く被せる。
普段の会話のやり取りならばこんな事はやらない、会話が窮屈なものになるから。外からの何か情報を取り込む時、見聞きしたことのないそれに対しての受け容れ方は少し広げておく、という事でそういう時にはほんの少しのお節介をしている。
本人に受け容れる柔らかさが今、あるから。
・・・
※これは、「いつでも人は叶っている」状態にある、という考え方。願う望むという言葉を使わずとも、自分の中に”ある”その状態が外で「そうなっている(叶っている)」という考え方。通常、自覚する「そう願う事」とは別が多い”状態”によって、いつもきちんと”叶った”状態にある。
願う望むは、状態を表す言葉”表現”なだけであって、言葉にしなくてもその状態があればそれは「現われる」と言える―――。
だけど人は、思ったことなどを自然と口にするので、「その言葉が叶った」と考えるのだろうと思う。私は今のところ、自分の中に”ある”=その状態にあるだけでそれはそうなる、という考え方をしている。この時言葉は、周知するための表現でしかない。”叶える事”に、言葉にすることが前提とはならないと思っている。
言葉で言い表すと、まったく別の世界を表しているようだけど、私達の過ごしている世界をただ、言葉にして書いただけ。