ひとりとみんなは互いの為になっている
「自分の中」ってよく観ていると、必ず掴めてくるんだよね(笑)
「あれを書こう」と楽しみにしていた、アタマから湧きだして書き留めるメモにワクワクした。それが”ある”ことは分かっていて、確実にこの私に意識された状態にあるからこそ、「避ける」ことができる。
率直に、「”書く”という段階においては、それを繋げる部分がまだ少ない」と感じているから。メモ自体はただここへ移せば良いのだけど、その間を埋めることに時間がかかる事を感覚的に知っている。だから”環境”を整えようとする。
買い物で時間が多く取れない、今日は○○でまた時間が少ない…。などその書くという事に集中した環境を用意したい時が確実にあり、その時は考える頭も出すために、整わない環境によりどんどん先送りになっていく…、だから小さな他の、なんて事のない話が途中を繋いでいる。
私が日々noteする中では、こんな状態になる事も何度も経験している。自分の流れは、観ていると掴めてしまう。環境を整えたい状態も必要な時もある。それでも何らかで揃わない環境ならば、それはそれとしてただ揃ってくるのを待つ―――。
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そもそも、急がなくちゃいけない理由もないから”待つ”ことができるのだけど、私にとってそれは結構大切な時間でもあるので”延ばす”ことも出来るのだけど。
それが、自然(流れ)に任せた”タイミング”という別の言い方ができるのだけど、難しいのが、こうして「言葉になって現れてしまった」為に、その内容は把握され、「そうすれば良い」という事として多くは解釈が入るということ。
ここにある問題は、やらない為の理由でなくてやる為に待っている状態を、自分の中身がまだ色々とごちゃまぜの時には、その判別ができないから、言葉によって理解できたそれを「やればいい事」としてやってしまう、というもの…、やらない正当な理由にもなってしまうという事。
解釈は”自分由来”なので、殆ど無意識にそのルートに持っていかれる…だから自らでは気付きにくい。かと言って他者から言われることもまた人によっては好かない…、またその逆に全てを鵜呑みにしてしまうなど、呑み込みは自分側の処理でしかない―――。
だから、自らに従い「やってみる」ことが一番分かりやすい方法になるんだよね(笑)それによって得られる結果が、自分の選択したことによるもの。そんな事をやり出しの当初は、全然「思った通りの結果」なんか入らないかもしれない。
そこで”思った”のは、自分以外に居ないのでその事に対して生じる感情とは別に、何某かの「結果」は手に入っている事を理解する。それが自分へのデータ。人が散々に外から取り寄せたいと思っている情報というもの。
頭で解釈を済ませてからコトに入って行くことが得意な人にとっては、物事の理屈その理解、というものが有効だけども、そうでない人も多くいる事と、殆どのケースが”知って終わる”という事は、多くが知っている事で、実際にその実践がなされる事はとても難しいものだと思う。
だから、「ともかく動けてしまえる」という事は見方によっては大きな当人の武器でもあって、頭の中から飛び出した「やってみない事には」の域へ行くことに抵抗のない状態があるというのはアドバンテージ。
そしてただやったで終わらずに、結果を自分の中で回していく「内側を潜らせる」ようになるから、合わせてそこから拾える情報も必然的に増えていく。「考える」という動作を入れてまたやって行く”出力”、返ってきての”入力”、ということで循環していく。
「動いているもの」って、人も動物だからそこに目が行くし目立つからそれに目が引かれてしまうという事はある。その、外に見えやすい人の動きにつられるのでなく、「自分が、どうしているか」という事に目線は戻すようにしないと、この目には、いつも他者しか見えてこない。
その、自分の身体(脳含む)を使ってしか※物事をこなしていけないのだから、考えるベースは、”ここ”になければいけない。どれだけ他者が優れていようと、他者のアタマ、カラダと同じ様にはならない…もっとそれより優れた部分を自分が持っている可能性は半分はある。
外に他者が見えてしまうピントになっているのは仕方ないにしても、違う目の使い方、もっと「自分に寄せてものを見る」というピントの調節が可能だと自分の情報が増える。
何かを判断していくのに、「外」を参考にするまでは良いとしても、それは同じことを自分に当てはめることでなく、やはり「自分に置き換えてコトを見る」という事が必要になってくる。
自分と他者の存在は別という当たり前のことが、人の意識としては”一緒”になってしまっているのがこの世の常識になってしまっている事には、修正が必要ね…。
※
これは今までにも何度か書いている事なのだけど。
「自分が行うこと」というのは、もちろん自分の世界においてはその在り方が基本的になるわけだけど、何かモノゴトを成す時に、個人が全てやる必要はまったくなく、寧ろ他者との協力の中でコトを進めるという役割分担が世の中にはある。
自分が得意でない事に自分が労力を割くよりも、得意な他者がそれをやった方が、結果的にも良いことが多い。好きで専門外をやってみたい話は別として、関心事、得意な事には結果も良いことは普通に考えやすいこと。
どこかで「全体として観る(動く)」という考えがあると、自分と他者との比較で”他者の方が優れている”から任せた方が良い、という目線が出てくる。
昔これを、私はバスケットボールをやって来たものだから、そのエピソードで書いた。
全体として目指している事は同じく「勝つ」こと。そのために自分のポジション以外は下手にしゃしゃり出ないという遠慮でなく在り方、当然のこなし方でもある。
全体の中で自分が薄まっているようでいてそれは自分の持つ「勝つ」という目的を達成するための手段になっているという、小が大を、大は小を、双方が同時にまとまっているという話。
”個人”というところの枠から出て、世の中をその様にみる時には、自然と「自分」が弱まっている場面がある。その事が「勝ち」へと結びついている事を知っているから、犠牲でなくそれもありなのだ。