ある事もない事も前提
いやいや…
本当におもしろい、内面は興奮した時間になりました。
テレビは見ないので、ニュース記事を目にして都知事選の結果を知った。
政治のことなど全く関心がなく、選挙と言っても熱くもならない…、だけど今回は、都民でなくても世の中話題沸騰だった事は間違いなく、そこには大きな期待も抱くことができたから”楽しかった”。
街頭演説などの様子を目にしても、本当に「祭り」だと感じた。
この真剣な催しに、今までにない関心と楽しみを持って見れたことは有り難いと思った。
タイミング的に大きなチャンスであった様に思うのだけど、誰も力が不足していたのでなく、(終わってみれば)やはり戦い方が非常に上手かったという印象を感じた。というより、「勝つ」ことを知っているからそうなるかのように…。
結果が決まった後に、腐らずに次への目線に切り替わっているのが本気という事なのだと思う。
一先ずの区切り、今日はまたもう別の日。
「内側から満たされる」
ということで、自身が確かに安定(安心)できる。
そこがあっての外側と私は考えている。
だから逆に。
”外側のこと、そこにあるもの”と優先できる状態は、人として(は)この内側に集中している状態より、進化したものだと思っている。
「繋がっているから同じこと”」とよく書く、自他の優先の話や、~のために、というもの。これは他者を優先に持ってこれる状態があることを間違いなく示している。
自身はそれ以前にしっかりと満たされてあり、他へ目を向けることができる状態を持っていること。当たり前に足元がしっかりしている事が前提にある。それだけエネルギーを持っている「余裕」があるということ。
だから「ない」という不足の状態でそれをすると、自分側が枯渇するのも当然という事になる。”余裕”はその個人にとって大切なものが”ここ”にあるかという事で、個々それぞれのものがあるのだと思う。
そしてこの考えをする時、同時に思うのは―――。
”ある”ことから始まらない人生からスタートした境遇もあり、その事。
あちこちと移動することが当たり前の生き方は、また”なくて”当たり前という所から始まるのだろうと思っている。だから”ない”から”ある”いけることだけで有り難い状態になる。
”ある”から”ない”は、「ない事がおかしい」という踏ん張れる状態。どちらもが場面や在り方として大切なことだと思っている。
外側に気を注げるのは、余力があるということ。
だけどそれが本当にそうなのかどうかは、確かめが必要と思う。そして”ない”のだったらしっかり”ある”状態まで持っていく。「ない」ことは恥ずかしい事じゃない、見えていないことが恥ずかしい。
・・・
必ず経験から持っている前提、習慣がそれぞれにあって、それは自分の視野が拡がるほどに、”違い”というものを目にすることになる。
そして視野を広げて機能は世界を映してくれているのだけど、処理するのはほとんどが「記憶」だからそこからの思考で世界を見る…。
昨日は本当に暑かった。
買い物でホームセンターに着くと、入り口付近にポメラニアンを連れて歩く人を見かけた…、少し驚く。
『でも、口は開けてるけど、あのワンそんなに暑そうにしてないよね』
主人にそう話すと、かつて聞いたことのある会社の人の話をした。
「うん、だから育ってる環境ってあると思うんだよね。メグミさんの所の犬の話あったじゃん?エアコンも入れないって、信じられないよね(笑)」
その人は一人暮らしでワンコをとても可愛がって面倒を見ていて。でもエアコンは使わず、自分も一年通してそれらを使う生活をしていないという(驚!)
『この暑さじゃウチのワンコたちはキツクてとんでもないと思うし、考えられないね』
「ウチの子たちは…、なんて言うか過保護だから…(笑)」
『あ、そう思う?あそう…』
主人から見れば、どこかはそう見える所があるようで、私は”適温”に関しては、犬(トイプー)を飼うのが初めての時に知った情報と、家でエアコンを入れる時の条件(誰かが暑くてパンティングをする)があった時に対応していることが習慣になっているのだけども、それが”当たり前”になった生活をしている。
以前近所でよく見かけたワンコは、暑くなってきた時期でも毛糸の洋服を着せてお散歩をしていた。初めて見た時はやっぱり驚いたけども、犬種にもよるし個体にもよるし、環境の異なるところで生活をしていると、それに応じた生き方がなされる、ということも分かる。
当然、常識の範囲というものはあるだろうけど、最終的にはその子の状態を観れば分かることで、本当にそとから一概の基準を以ってダメとすることも考えものだとも思い始める。
そういう所から、身を置く環境によって完全にそれに合うような生き方をするし、その様にできる…という様にしていくのが生きていく事なんだろうと、ワンコのことが人のそれとして途中から視えていた。