「感覚」をかんじた日
昨日は朝から、色々なコトを感じていた。
何かを見、それを感じ、そこを観ている流れを思い出してあちこちにメモがてら発信、またはメモ帳に少し。
その感覚を自ら探っている時というのがおもしろくて、そう感じたままにツラツラしておくのだけども、いつもそうだけど、(メモ帳に)書いているとそれが確実に「どこかへ結び始めている」という路線に変わっているのがわかる。
この白けた感じもしっかり捕まえながら、自らの熱を冷ましてメモをやめる。つまらない。
非常につまらない「域」に入っているのを感じると、途端に冷める。
この辺りを言語にされていたのは、養老さんだったと思う。
① 昨朝は、「自分」というモノが「抜けている(ない)」と感じることから始まった。
抜けているといっても、喪失したという意味じゃなく、その時感じていた「その様子は」自分という存在はなかったな…、と観えたという話。
「自分・私」というものが”ない”ということであれば、どういう事だ?
ゴミ捨てを気にして多少急ぎながら、頭の中は”ボーッ”と感じている。そこに視えるのは「コト」だった。(”結びつけ”が弱い状態であったとみている)
⦅自分と思っている存在は、その様々な、都度そこに観る「コト」なのか⦆
そう思った。
その連続で一応の「私」とし、この情報が記録され、順序通りに並べることができるこの存在を一応の「私」として。また私自身も”情報”は持ちながらも、やはり流れてきた情報を、一時この肉体が存在する間にここに留めてあるもの、その媒体として器官として。
そんなうっすら感じたことを元にしてここに書き、更にそれは、読み直した昨朝のnoteの内容から繋がっていると感じた。
”その”順序”が崩れて分からなくなっている”
連続である事、”連続している”と感じるほどの集まり方。その集まりとした塊を「私」と認識し、そのパターンのくり返しを以てこの「私」という循環をさせてきた。
「自分を抜く」「抜いて考える(在り方)」というのは、この意識側でその様にする事でなく、”その状態のコト”を現している。それを言語で説明した途端に、この世側での解釈が始まり狭い世界での実用となる。
一先ずは、そんな風に思った。
・・・
② ワン達の昨朝の出来事は。
その動作自体は何も変わった事はなく、「怖いよねぇ…」とこちらが処理してきたことだった。
まず、ゴミ出しをしに外を歩きながらサンルームの方を見ると、網戸にしている少しの隙間からニコルとピースがこっちをジッと見ていた。
(かわいいなぁ…)
ゴミ置き場に到着してふと思う。
(内にいる時に映している対象と、”外から見た目線”とでは、まったく見え方が違うんじゃ…?)
この流れで脳内に映ったのは、「家庭内のこと」だった。
小さな子供を持つ親御さんの苦労、時に楽しい可愛いだけでは済ませることができない、親側の目線。完全に家庭内という”内側”から見るウチのこと。これが距離が出て外からウチを見た時、いつもと全く違う見え方が現れないか…、そんな風に思った。
この後、ワン達を外から抱こうと網戸を開けて手を伸ばすのだけど、当然ながら怖がって尻込みをする、いつも通り。いつもなら「高い所の淵に来させられるのが怖いのかな」としか思っていなかったのだけど、これも結局「内・外」ということに脳が意識を引っ掛けていたと、書いていて思う。
⦅なんでだろう?ウチからのシチュエーションは全く同じで、そこから外を見て、そこで匂いも嗅いでいて、知らない場所・空気感じゃないのに。”私”
という事も分かっているし、来たがっているだけど引っ込んでしまう…⦆
上手く誤魔化し、一匹ずつ抱いて少しだけ外から外の空気を吸わせた(笑)もちろん内心では「変なの(笑)」と思うのだけども、一番興奮するピースの心臓のドキドキ感、どんな思いでこの状況を感じているんだろう、と思った。
犬の目線になり切る事はできないけども、想像するに、何か「同じ側から」というのがポイントで、これは「向き」というのを感じているからじゃないかと。
感じるというより、相対する形勢を目にした時、既にそれだけで「敵」と捉えてしまう本能的な反応があって。”ママ”と情報からは分かっているけど、”反応”の強い抵抗を超えることは中々難しいのか、と。
奥でひっそり見ていた最後になったライトくんが、呼んだら一番抵抗なくスッとこっちへ寄って来た。一番シチュエーションに慣れている事、またそういう反応が元々”弱い”という事もあるかもしれないけども、この「弱まる」一因に、「慣れている事」がある訳で。
今、家にいるワンの中で、外が大好きで色々なシチュエーションにも比較的慣れている、馴染んでいくライト。彼はあまりそのウチソトという境を持たない(薄い)のかもしれない。
同じ「内側」というそこの。
理解上ではまったく”同じこと”としてやり過ごすその脳内の処理は。
多分全然違うのだろうと思う。
理屈上、平面に見るその”理解”と、脳内で処理されるそれは、私達の理解と異なる結果を見せてくれる。
そりゃそうだ。
「移動」すれば、”入力”は当然かわる。
私たちはこの目で見ていると殆どを勘違いして、脳内の最短距離で”結果”を出している。
その場に行った入力、その結果というのが「現場」というものだから。
☆☆☆
と、例のごとく日中に書いておいた。(区切り線より下部の部分も)
②のワンの部分は、”説明”にちょっと引っかかるものがあり、「もう一度考えたい」という思いをその後に小さく引きずった。
風呂に入るその時間を楽しみにし、浸かる。
浸かる。
⦅そうか、そうだね…⦆
書いた事は全然違うな、と思った。でもそれはその時、朝のそのシーンを思い出してそこに当てた言葉だった。
”浸かって”すぐに、
『⦅⦆の説明以下、あれは私の目から見たもの、その感想だ。ワン達はただ単純に”違う場面”を見ているし、同じシチュエーションなど一つもない訳で。同じ・分かっている、内側・外側などという表現・説明自体が、人間の私のものでしかない』
そう思った。
どれだけ、それに近づいた目線で書いたつもりでも。その時は”かなり近づけたかも”と感じていても。その”感覚”で反応するワン達と、各情報を重ねて出した私のソレとでは一致するわけがなかった。
浸かってここに繋がった理由も、一日の自分の流れの中にあり、その発信した情報の一部からこの感覚への気づきに繋がっていると感じた。
そして昨朝は、”感覚と意識”というものが、しっかりうっすらと網を広げてくれていたのだと思う。
「感覚と意識」
といえば、やはり養老孟司さん。
ちょっと単語を入れれば簡単に出てくる。
その「状態」の説明の仕方というのは、これは個々の表現によるものもあるけども、その”状態”というのは、その状態への「感じ方」というのは、ソコでとらえれば、「そうなる」というものになる。
それを、表の、こちらの人間的な意識で捉えるのでなく、私は「人としての機能」と捉えている。
その様に感じる、そう観ずる場所があるということ。
そう働く機能が、人にはあるという事を伝えたい。
そして恐らく。
通常の人にはない視点からくるその表現が、こちら側から見るとかなり鋭く見えるというだけであって、「居場所」が違うその場から言えば、それは至極当然のことであり”普通”なこと。
比喩的なイメージで言うならば、核心から放たれる言葉は「光」として強く眩しくて、それが私たちには見づらい。
中々まともにこの中に取り込む事ができないのは、それだけ私たちが纏った側からそれを受けるから。
その核心部分へ行った時、その「感じ」がこういう事かと、やっと分かってくるのだと思う。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!