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記憶が「私」を作る

ただでさえ”結び付ける”―――
それが人の作る世界なんだと思った

「私」に戻るのが、なぜ大切なのか
その感覚を持つ者がこの私であって、その感覚から
”私の情報”として結び、私を思い出させてくれるから

それだけ人は、私以外の空間を
長いこと過ごしているという事か

・・・ ・・・ ・・・

この世に、偏りを見るのは人の目

何かの片方を見る習慣「私」という存在。

そしてその偏りは持ちつつ、返ってくる「受け取り」を観ていると…それは自分の思う範囲(同じ偏り)とその反対(逆の偏り)、思う範囲以外(それ以外)のことがある事が見えてくる。

ここで、”「私」はありつつ”なので、当然何かしらの反応は内側にある事も認め(見つめ)つつ、受け取れる内容へ視野は広げておく。「私」はなくなる事はないのだから、ある次元では「そういう思い(反応)」が強くなる事もあるけども、戻りには”すべて”がある事が解かってくる。


そんな見え方(捉え方)があるのか…、「私」の持っていないその目線を、普通に持っている他者達の集まり、その世界(社会)。社会という公の、他者達がいる大きな世界に合わせつつ、「私」というモノの在り方でいつも世界は把握されている。

だからこの世は、偏りとなるのだ。

公という場でありながら、人の在り方は程度の差はあるけれど偏りの存在としてこの世に身を置いている。

戻りは全て、そう見えている範囲も、まったく全然世界の一部でしかないけども、「私」という一部の偏りを持つ存在と、世界という全てがあるその空間と―――

両方を見るから、一部の私という事が、”分かって”くる。

・・・

自分でよくする表現に再び触れた昨日のnote。きっとそこからこの出力は続いている。

(出したものが、何かの形で返ってくるという見えない循環。それは一体どういう事だ?)

簡単にはそんな事がこの内側では生まれていたんだろう。

はっきり言って、私は”戻ってくる”という様な表現を当たり前に使っているけども、実際にそれを見ることはできないもの。直接にそういう事があれば「そうだ」といえるけども、私は仕組みから”そうだ”と考えているに過ぎない。

もっと言えば、人のこの「頭の中」で理解するためにその事とあの事という様に結ばなければ、それは単にそれぞれの出来事となる。事実以外のできごとに関して、ものすごく多くの場合、個人個人の頭の中で何かと何かを結んで、この自分に見える(解かる)ように処理されているだけなので、脳に逆らって時により完全に「関係ない」と切ってもよい状態はある。


なぜ、これを書くかというと、端から何も感じない、思わない人ならばその苦労は「?」かもしれないけども、結んでしまうクセが強い人もいるので、それが思い込みであり、個人のパターンとなっている者の心労にもなるから。

だから内容によっては、自らのクセによりそう読み込んでしまう頭の流れを、遮ってしまう事は技として必要だと思っている。

そして、「自分の思う(考える)ことが、あくまでも世の一部である」という事を、この”反応”の次元から抜けた所では見えてくる。コトは一つしか現実世界では起きていない。だけどそれを中心として、どちらから光を当てて見ているか、という事が簡単には分かる「両極」。

それがどーこーでなく、さらにはまったく違う角度で観測することもあり、人の持つ目線はバラバラ…動かないそこにあるものを、その通りにそれだけを解釈することは本来とても難しいのは、脳内を通すから。

…、そんなこんなから、機械のアルゴリズムによる人工的な「シンクロ」を通してザッと掴めるのは、自分が何かへ傾けなければ傾けない程、それは「全体」に近くなるわけで、完全ではなくとも「私」という強い固有を緩くしたその状態であれば…。

幅広く、どこからでもその状態(焦点)のものが集まる、ということ。それがやろうとなしに仕組みからそうなるという自然な流れとしてくる(人工)シンクロ状態だと思った。


例えばリアルは、言葉などの情報を「そこ」という現場に直接残すことはできず、ただ流れて行ってしまうけど、それを”憶えて”いるのは、この頭の機能「記憶」という事になるのだけど。

それが人の世界の事であれば、言葉を使ってそれを残す事が出来るし、音でも記録することが可能。人の世界では”可視化”ができるので、疑似的でも追跡がしやすい状態にある。

通常リアルの世界では、自分の動きというのは無意識である事だけでなく、そこに記録をとどめておくことができないので、追跡すら難しいけども、人工的な世界では追跡するのに手がかりが多く、何某かで記録として残るものを「見えているもの」として、それを追う事が可能。

粗削りだとしても、取っ掛かりにはできると思う。

「私」というものに、極端に傾けないという事は、何かを極端に分けていない状態であること。”詳細”になる前の状態に意識があると言うのは、外の「その事」をその次元で目にする事が多くなり、当然のごとく「シンクロ」する事に近づく。

「私」というのはごく狭い、小さな限定した状態であるという事。限定しない状態に意識を置けば、それは当然範囲は広くなり世という世界と重なりやすくなる、という事は理屈的に言えると思う。

それを「起こそう」とすると、途端に”思うよう”にはならないのは、「私」がしっかりある状態でやる事になるから。言葉を変えて、「無意識」の状態を活用しなければ、「私」が主となる”意識”優位の状態に。

通常「私」とは、自分に意識されたこの存在のことを言うのだから。

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☆うみのみか☆
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