自分を満たす
もしかしたら…。
「今までと何ら、”言ってる事は変わっていない”というのは、表現の仕方がただ、今までとは違う言い方をしているという事だけでなく、その人「個人」の中で洗練されて行き、その結果に表す言葉が鋭く、明るさを持つようになるという事なのかもしれないよね。
そしてその”洗練”までの紆余曲折が「そのまま」、そこに行きつく迄の道幅のすべてだろうと思う。
そこから発する言葉は、今までの内容を元にしているという事すら気づけない程、姿を変えたように見えるかもしれない。
顕れてくるものって、元の形を大分変えて表現されている事も多い。
私の、以前からの考え方の基本は変わっていないのだけど。
ベースは「自分」なので、それはきっちりと守る・固めるという優先であるという事。
そして人はきちんと、状況によりその優先を変えた選択をできるので、どんな時でも「自分が優先」と常に意識する必要もないし、逆に「自分を先に」しないといけない状況もある…、つまり、”そうしよう”と思っているその時ほど、「その逆」の状態を持っている事が多い。
何でもない、柔らかい状態の時は強く意識しなくても”臨機応変”が効く。そうでなく強くどちらかへ持って行こうとする時、人の状態は「そうでないから、そうしようとする」という事になる。
少し前に「自分を見通す」という表現を使ったのだけど、意識して自分と向き合う事から始めて、今の自分がどんなところに居る(ある)のかを時折確認しながら進み続けて…、そのうち”そういう事”自体も特に気にすることなく進み出して。ただとにかく、基本的には「受け容れて行く」というスタンスにどんどんなって行ったのだけど。
私は自分の在り方を、何か特別なものへしようしているわけではないし、また、受け容れる事の難しさは、事あるごとにぶち当たり、キーーッ!っと
なりながら、後でプププと笑ってボチボチ進んで今に至るのだけど。
その時の”小さな事”がひとつ、見通せただけであって、何かの全てを分かったなんて事は毛頭ないし、死ぬまで分からないままだと思うのだけど、やり続けることはずっと先々も同じだろうとは思っている。
そうしてチビチビやって、やっと「自分を知る」ことが増えるのだけど、それは、コトの詳細を拾い上げているわけじゃなくて、機能として、人の持つ”ハタラキ”として掴むことが増える事によって、行いは「自分を観ていった」のに、「人」として同じと見なすその場所での解釈が進めばつまり、”他者”も同様のハタラキから観ることが可能という事になる。
他者をずっと観続けているわけじゃないということ。基本は、この自分自身を観続けたという事で、この私という存在にかなりの時間をかけ続けているということ。この事を、昨日の終わりに少し書いたのだけど。
何かコトを行う時に、コト直接というものと、間接的にという事があると思うのだけど。直接の実行が分かりやすくスムーズなものならばそうすれば一番良く、結果も早いのだけど、そうでないケースにはどうしても回りくどいような間接的なアプローチが必要になるわけで、かなりの時間も必要になる。
その理由だけでなく、そもそもの手段として端から選択する事はできてしまうので、他者という自分以外のニンゲンを知るために、この私を深く掘り下げてしまえば良い、という考え方をしている。
ここまで細々と書いているのだけど、要約すると「私は殆どの時間を自分に使っている」という風に書いているのだけど(笑)
その事が思い切りベースにあって、その上に他者のことを少し乗せていると言うようなイメージなのだけど。目が付くのは当然目に見えてくる”その部分”なので、他者観察をしているように見えるかもしれないけども、大元のベースは、人のハタラキということからであって、そしてそれは、この自分の観察を経て「そういう事」を見つけ続けているという事になっている。
外の世界の情報を仮に多く入れたとして。それを処理するのは、この”人”の中の働きによるものであって。その処理性能が私は優れているわけでもないけども、多くを使う事はできているかもしれない、ということ。使われない部分を人より少し多く使えば、ノータリンでも幾らかそれらしくは”見える”と思う(笑)
「人」と言われる部分の、細かな詳細では身につけているものが違うので自分と異なるものはあって当然だけれども、基本的なハタラキの部分においては同じように見ることで、そこは理解は可能だと思っている。
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自分に多くの時間を使うことが必要な段階がある。それが”集中する”という事(状態)と言っていい。自分自身へきちんと集中していく時間がある事で、その状態に入れることが、自分を安定させることになる。またそれを言い換えると、”自分が満たされる状態”という。
他者の奥深いすべての事を分かるとは思っていない。誰もに共通する機能(的)な基本を知ることで、理解することが可能と捉えている、という話でした。
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最後に、これはよく書いてきている事なのだけど。
どれだけ「そうなのか…」と思ったとしても。また、「それは違うと思う」と思ったとしても。必ず優先するのは「自分自身」で良いということ(自分を偽って合わせる必要はない)。
私は、「自分の中に極力摩擦を作らない事」を第一に推しているし、それで良いことも確かなこと。自分自身に対しての態度も外に向けての態度としても。
それは楽なことではないのだけど、”その人”にとって、正しい事や間違っている事は、その人自身が確かめることで、他者自身の中で行われる事によって”私”というものがしっかり立ち上がる…、そうして時間をかけ、段々と自分を”見通す”ようになってくると感じている。
人は、それぞれがまったく別々の異なる世界を生きて良いのだし、実際に人は、同じ世界に生きていると思っているけども、まったく異なる世界線(目線)でその世界を生きているもの。
自分から「私」がお出かけしてしまうのは、いつの間に「私」を外しはじめて見なくなってしまったから。「”ここ”にあるもの」を無視して視線を遠くしているから、きっと他者を「私」のように操作したくなってしまうのかもしれないよね。