慣れない世界
(感覚的な内容です)
見えるトコロ・コトを無視した時ほど
主がはたらく
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そう言う読み方、行いをした時の”ウラ側”が強く働く…作用してくる「見える所」。
普段きちんと目に映るものは、イヤでもきちんと意識されるものだから、”意識しなくても”通常は、意識にあるもの。そこは程よく影響されていればいい…。
”自分(と思っている)”を通して取り込んだと思っているモノより、それ以外の影響はあって、非常に大きく・強く。自分を通したものはしっかり記憶をしながらも同時に膨大な無意識のキャッチを日々行う。
これによって自然と出来上がる無意識部分はまた、”自分”の気づかぬものを増やす。
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こうして考えていること自体が”意識側(自分と思っている側)”によるものだけれど、実際に「言い表す事が難しい」という状態自体が、それを視ている時の自分は「意識側じゃない」と言える。
本来は目の前に映っているものを、きちんと「言葉」に出来るものだから。この現実的世界を”安定”と言うなら、今私は”不安定”な世界にいる時間も多いとも言える。(ただ、ここにいるから”シンクロ”が非常に多い、とも言える)
そしてこの人間的には誰にでも「慣れない状態」だから、いつもと違うという自分のあり様に、辛い、苦しい、なんかモヤモヤ…という「心地の悪さ」を感じているという事になる。
「この中にいて見えるものを掴める」という事は、「そうなる前の状態も説明ができる」、という事になる。
実感などなくても『心地よかった』という事だね。
人は結構、心地の良い状態に置かれている。それがあまりにも長く、自然な事になってしまった為、分からなくなってしまった。少なくとも私自身はそう感じた。
有る事は当たり前じゃない、とか、失って気づくとか。様々な状態を現わす端的な言葉があるけども、それすら当たり前になり過ぎてしまって、意味もしっかりと肚に落ちていないと知らされる。
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話しを戻すと、この無意識・無自覚によって”自分側”は色々あれこれを決め、行っているという、視えない部分からの選択。
人はその時、その人のタイミングで「ソレを決める」と言われる。「自分は何でも知っている」という事を繰り返し書いているけども、正にそう言う事だと思う。
何もせずにただココにいて待っている、という状態でなく、自分のできる事をやった上で”ココにいる”という自分。スタンスには大きな違いがある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ひとつの考え方を元に書いてみたので、その設定から外れれば全く”違う”考え方になるものと思う。
「強く働く、増やす」、という表現をしているものの、”働く”という能動的な印象のモノでなくただ存在として大きく強いもの。そして”増やす”、というより、そのように存在してしまっているものに”拍車がかかる”という印象なのかもしれない。
「主がはたらく」としたのも、対比で「主」とする訳で、実際に自分がいる時・所が主になってしまい、”主”自体は変わるもの。
現実的に考えれば、主は「この私」で当然なのだけども、自覚しているこの私の意識がココにあるようで、ない事は結構ある事。いちいち全てに意識を傾ける人などいないから。
そういう自分が”主”から離れてしまう時に、人の感じる「不都合」を実感するのかもしれない。
バランスが崩れるのは、微調整では済まない調整の必要性、今迄からの脱皮、などとにかく変わって行ける時なんだと思っている。この先に必要な今を作っている。
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