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自覚されるもの、との差

私たちはさぁ、きちんと考えているようで、まったく箱の中だし、考えていないようで世界に触れている。

自分という存在は、「習慣という特定の形の中」にある、という事は確実に分かっていなければならないのだと思う。それでも、強烈な境界で悶絶したりする―――。

・・・

もう、「そういうものなんだよね。」以上。

とは行かないので、少し書いていく。私が触れ続けている気学、2024年の超繁忙期間のひと月(4/5~5/4)を振り返る。

「それがある」ということは、強く意識せずスイッチは静かに入れ、自然とその中で過ごした。月の終盤は土用期間とも重なり、その終了の音は私はまだ確認していない、書いているこの時点では。

とにかく「進んで行くこと」。

その方向を自分が決めることは出来るし、その様に歩んでいく事を人は出来る。私は少しばかり位置の違うところで、そんな事をやっている。

ワンコと過ごす生活の中で、2月に糖尿病診断を受けたワンコの日常を共にする事になり、”それ”をみる機会が増えた。よく観ていなければ、私には分からない事だから。私にとって初めての事・経験。私には犬の内側の事を深く理解することは出来ないので、外に現れてくることから想像・見極め、選択していく。


多尿によるトイレシート選択のあれこれ、尿漏れを起こしおむつを着ける、お散歩は1・2・①ピキで分けて対応…と、その時の状況に合わせて様々変えてきた。変えざるを得ず、”現状がどうか”という事に常に注目した。

食いしん坊のその子でさえ飽きたのか、嫌って吐き出すようになった初めのフード、そして変更切替えなど、どんどん「この子にこうしてあげたい」という当初の思いが消えていった―――。

これは絶望的な話を書いているんじゃなくて、前振りで「キツかった」としているのは、”私自身の強固な境界線”、その狭間にある場所に立たされた時に立ち昇るそのエネルギーの流し方(抜き方)に、結果的に「体力が全てだ」と思うような動きを中心とした世界にいさせられる時間が多かった事によるもの。


(以下lineメモ)

”私”というものの「思い」が、悉く消されていった、外に居させられた。”私”が出るたび、必ず外に戻された…。

シンクロする状態は、私の無意識の一致なので”私”でない、私の思いの”外”とに一致している。私の思いをそこに通わせていないもの。だから一致するとも言えるけども、とにかく自覚させられたのは、「それで固定しよう・できる」と、安心したがる自分。そして間もなくそれは崩れる。終盤はさすがに学習し、ワンの内容の記録ノートでも、”一時的”と記し、”また変わるんだろうな…”と、予測が容易だった。案の定、翌日に急変、「こんな事あるか??」というくらいの精度。

このことは「表すと逆になる」の話も少し見えてそうな感じがしている。(ここの”シンクロ、逆になる"の内容は、別で触れる予定)


こうして、あぁして…が、湧き上がるとすぐに変更を余儀なくされる完膚無きまでに見せつけられ、最後は疲れた。人の、「自分に収まりたい」在り方と、抵抗しても抵抗してもそうできない事によって「流れているものは、止められない、それを止めようとしているのが、人の行いなんだ」と気づく。

自然に思ってその選択をする。人はいつも世界から自分を分離させて、自分の安心・安定の中で生きる事を選択している。

…そうか、そうだね。
それだけ気づかないうちに、”動かない選択”を、狭まる様な選択をしてしまっている「動きの悪さ」から来る、苦痛だったと言えるんだな(苦笑)、なるほど…大いになるほど。

・・・

補足をしていくと、メモの中の”外”は、思考上の範囲を言っているわけで、言い方を変えると、自覚していること=内、その範囲外=外。私がアレコレ考える事ができる、目の前の対処に関して自分の分かる範囲で”捉え”、それを継続しようとする姿勢がすぐに現れていた。だから次々と変更される状況に対応することが”大変”となる。

私が書きたいのは、目の前のことに対処する、そのこと自体は当然で良いのだけども、コトを変えくり返す度に自分の姿勢が必ずそこに現れて、また変わる、また変わる…という事を見だした時に、「私は落ち着きたい(固定したい)と思っている」と思った。自分の分かる範囲に収めていられる事、その動きで習慣化させる事は、楽なことだから。

それが、この超繁忙期間においては顕著に、悉く「そうはいきませんよ」と、誰か言ったかどうかは分からんが、コトが変化し続けた。毛をカットしたタイミングからおもらしもなくなり、尿回数自体もたった少しでも明らかに減っていた。おむつの使用も全くなくなっていて、「一時的かもしれないけれど…」と記録したノート、次の日には全くの正反対が大々的に起きた…久々のおむつ使用。でないと対処しきれなかったという振り幅。


この状況の因果を考えることは特になく、コトの流れの速さを目の当たりにした事、自分の”収まりたい”姿勢があからさまになった事。「起きる現象から事を行っていく」と決めてこのひと月に臨んで行った訳だけども、現場というのは、この”私”の思う形で存在している訳じゃない、という事の容赦なさ。

だから、結局”体力”って大切だな…と思った。

結局はやらなければ、それに対処(消化)できない「現実」という現場はあるのだから。


その中で、「助かったな…」と思ったのは、先日レポートした「乳製品乳酸菌飲料」。睡眠時間はかえって短い事もある中で、朝の起床時の気持ち良さ、軽さはあれ以来明らかだった。これに関してはすごいと思う。私は特に、睡眠は大切で、重要と思っているので。これには現在も本当に助けられている。

頭の中で「こうだ」という事を、いくら分かり切っていても、現場での力は全く別ものなので。それが、私には、「外の世界へ行く」という行い。

この思考の範囲を形とする”私”という存在、意識を(スイッチを)入れた事による、動きへの促し。やろうとする思い・意気込みと、実際に動いて行くことで現れてくる境界での摩擦は予想外に大きい。

その”予想の外”ということが、”私”の形を超えた場所にある事を教えてくれているので、そこへ行かなければ分からない事というのは、こういう事。どの様な事でも、”現場”に立つことで分かることがある。

そこに、”私”によって引かれている「境界線」がある事を知るからだと思う。

と、一先ず、具体的な事象に触れて、表面的なことを連ねました。
ここから自分の、または、”人”に見えてきそうな事を拾って、もう一度「境界(的)」なことに触れたいと思います。


当然ながら、動物のその様なお世話を経験している人は、世の中に沢山いるわけで、私が特別に大変な訳じゃない。それを言いたい気持ちは一つもないのだけど、私は他者がすでに経験している事を、いざ自分が体験した時に、「こんなに大変だったんだ…」と重ねる。

それを”愛”の眼差しで日々、行っている方々を偉大に思います。


特定の形、個による偏りの様々、傾向…、まちまちの時の経過というモノサシを持つ個人。何の枠も形もないその現る世界に、何かの形をつくり個人を浮かび上がらせている。

”習慣”を持っていることは大切なんだけど、一歩外に出ればそれはその枠の外世界。他の世界を観ることができるという事は、同時に違いを持つ自分の形を知る事ができるというもの。

パズルのピースに同じものなんて一つもないんだわ(*^^*)

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☆うみのみか☆
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