存在と自分の一致
冒頭と終わりをワンの話で挟もうと思って終わりを書いていたら、まったく長くなってしまった(笑)。
なので、真ん中に書く予定のものを単に別話として後半に書いていきました。
・・・
同じ動作をしていても。
本当に「この子は幼い…」と感じるワン、ピースくん。
ニコルだって”ヘソ天”(仰向けに寝ること)で眠るのは同じなのに、姿があまりに可愛くて撫でに行くと、対応・その表情がまったく違う(笑)
ピースは人の子のそれと重なる部分があって、本当にあどけない。何も、何かを考えている様子などなく、その気持ち良さの中にただいる様がこちらで感じ取れる。
そういう”部分”を、人は性格と表現するのだろうか。
あくまでそれはただ単に「今はそんな感じ…」の表れなんだろうか。
外の何かに反応してワンコラしに行ったピース。
ソレが”彼”だとは、今はまったくそうは思わなかった。
・・・
よく書くように、対してニコルは我が家の中では一番賢いと思う。
その態度は、学習からしっかりと”予測”もできて、幾らかでも他の子よりは、その傾向が顕著ということ。それを「賢い」という事が正しいかどうかは別として、人に近いという意味で取りあえず。
そのニコルに言える事は、「相手の反応と結びついている」ということ。
自分のこの行いが、相手がどういう動作をするか(自分にとっての報酬)という事との結び付けが明確。だから自分の”報酬”のために、しっかりと「相手を見る」という事がなされている。
その相手は「人」であって、その人をモニタリングすることで、人の動作も自分の中に”入ってくる”ことになるーーーつまり似たことが脳に出来上がる。
その様に考えてみたら、おもしろいなと思った。
モニタリングするというより、習性としてボス・リーダーに注目するというのは当然なので、ごく自然に飼い主を自分の中に収めているというものだろう。
(犬の習性の考え方では、狼とは違うから上下はないという考えがあることを理解しているけども、私は我が家のワン達と過ごしているこの10年以上の間をとって観ても、上下関係はあると考えています。(※水が絡んだ話はまたいつか)
ただその上下は、全てにおいて必ず上または下という事ではなく、何かにおいては上または下というものがあるという考えです。そういう意味では犬だけの関係内は、「リーダーはいる、ボスはいない(ボスは人が該当)」という”横の位置”で観ることが可能かもしれない。犬と人の絡んだ話)
「できる」ということ。
私は何かが”できない”という事もまた、それで良いと考えていたのだけども。
勿論、すべての事を何でもできる人などいないので、できない事もまた当たり前なんだけど、今回は「やはり、”できる事”の利点」が浮かんでいたので書いていきます。
昨日はふと、「できる事の、それに因る自信」という事を思い出していた。この”自信”というものも後で観た”結果”でしかないのだけども。
もう何年か前だけども、まだまだ自分と向き合い真っ只中でのことをふと思い出して。具体的な状況を思い出したのではなく、”そう思った”というコトを思い出していた。
新しい事を知る・学ぶという事は、単に好奇心からそれに積極的になる、という事だけでなくて、それによって「対応できる事が増える事による自信」が自然と身に付く、内面に溜ってくるという事と思っている。
「対応できる事」としているのだから、知識だけでは少し足らず、知らないよりは良いけども、使えなければ仕方がないという所で、自身による”実践”が自分の中の「できる自信」を育てる事になって行くのだと思う。
何かに慌てる不安、行き過ぎれば恐怖などは、「分からない」事によるもの。知っている事で対応・対処の少なくとも手段までは導き出せる。そして「実行」。
この実行が、時に経験からでないと身に付けることができないので、少し不足という事がどうしても出てくる訳で、それらをできる人は確実に冷静で落ち着いている様に私は感じている。
処理(対処)が自分の中にあるから。
また逆に、仮に知らなくても未知に飛び込むことに酷く臆病にならない性格であれば、これもまた同様に落ち着きがある。「何とかなるだろう(できるだろう)」と思っているから。
そんな事で「できる事」というのは、具体的なことができるという事のメリットだけでなく、そこから積まれる「自信」が無意識に増えるという事だと改めて思っていた。
それは傍から見たらやはり強さにも感じるのだと思う。冷静であるという静かさは、しっかりと堂々たる態度を見せてくれる。それがまた外にその様に伝わる(そう感じる)という事だろうと思った。
できる事の最も純粋な考え方は、頭だけでなく、やはり”やる事”によって、そこで体験する事や感じる事、想定外に再び考えて対処してという自然な広がりが生まれる事。脳内で「こうなる」だけでは、知っている範囲の想定でしか考えられないものだから。
また少し別にズラすと、これらの選択すべても、「できないならば”他”を活用していく」という事に及んでいくという選択もあるので、正しいという事でもない。
現に自分の代わりにいい仕事をしてくれる機械・知能がたくさんあって。私たちはますます、自分がこの自分の身体(脳)を使って、本当に何がしたいのかという、コアな部分だけに集中することが可能になる。
身体拡張は、”意識上”だけでなく人工も加わりますます大きくなっていく。
そのコア部分を見つけることが意外と難しいのは、私達の殆どの動作が、自分の自覚上の行いのようでいて、意外にも「違う…かも」という事で流されていくから。
分かっているようでわからないこの”自分”を、一番しっくりくるものを探しながらだから中々即座に決まるものじゃない。いざ真剣に考えると却って分からない。
機械を使って、この自分の代わりはしてもらえていても。この身体を伴って産み出したものが実感として強いだろう…。本当に「自分である」ことを確かめたくて、私たちはわざわざ面倒な、非効率な事を選択して生きるのかもしれない。