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その世界はどこに

「細かいこと」を考え始めると、それは色々と粒々に散り始める。

アレ、コレと拾い出すから。

メモした”ツブツブ”を思い浮かべた時、その時の場所を思った。「落とし過ぎた」と。

その日は忘れない様に何点かメモして残したのだけども、その”現場”からすっかり離れている今(24日)再び目にして、「え、、これも書くと言ったんだよなぁ…(苦笑」と思った次第。あまりに細かくて(私の目線にしては)、書く気が失せる。それ程自分の行いでもすんなりと行かないものであ~る。

もう少し適度にまとめながら予定通り書いていきます(*^^*)


「でもそれを”自分”って言うんでしょ?」
『そうとも言うよね』

純粋な”自分だけ”なんてなくて、血筋など様々なものがこの身体にあって、ちっとも自分なんかじゃない…。

主人と少し前にそんな話をしていた。

そしてその「様々なもの」を抱えたのがこの自分自身でしょう?と主人の考えはそうだった。そう、だからこれっぽっちも”自分だけ”なんかじゃないこの集まりを自分というなら、この自分自身という個体を持ちながら、その中身はまったく”色々”であるという事。


ただ、この時の私のイメージは、「これが私だ」という強い自信と自覚、自分への信頼を持った状態の話を想定していたので、そのことを少し書いていく。

元々何かとくっ付いている状態で完全な”安心”を得ていた、そうある状態から、私たちは”外界”を目にする事で、色々を区別していく。同じままでは
”自分でなくても”良いわけで、成長する程に”替えが利くこと”を人は心底望んでなんかいないと思っている。

”同じ”所、考え、一体感。

この力はとても大きいのだけど、必ず成長の過程で”自分である”という事への意識が拡大するのは自然な流れだと思う。自覚がなくてもその動作をとっていく、自然な形でスーーっと動作と一体となり表に現れていく者が、あまり強固な”壁”を作ることがなかったケースなのかな、と想像をする。


そういうケースの方が自然と感じるのに、人が自然である事はとても難しくて。だから何らかの”境”を突破していく時に鋭くならざるを得ない…、境がなければただ世界の中に溶けこんでいる。イメージだけど。

”自分”ができてくるほどに、他者との違いは鮮明になる事となり、自分でいることの自然と、他者の集まりという世界という全体とが分かれてみえる、そう感じる。

”内側”という自分の方から世界を見ると、そこは知らないものばかりの、受け容れる事ができるものばかりじゃないその世界が大きく広がっていて。決して心地の良いものばかりじゃない。自分の判定”基準”で観るという事はその様に見てしまうという事。だって内側からはそう見える”事実”だから。


だけどちょっと視点が変わると、世界側から小さなそれらを観ると、皆がそれぞれに小さなツブツブであると分かる。自分という個を観る、十分に確かめる段階があり、そうする事で同じように他者自身にも「個」という存在であることを自分の中で理解する。

それは全く別個の存在なんだけど、同じく”個”として生きている「存在同士」ということ。自分自身を大切に扱うという事は、他者のそれも他者において当然の行動だということ、自分自身をしっかりと理解していく事で「他者」もハッキリ観えてくる。


”他者を見る”というのは、他者そのものを観るという意味もあるけども、それはもしかしたら、自分自身を知る(観る)ことよりも難しいのかもしれない。他者に自分が重なっていること、その重ねられてしまうフィルターが自分にあることを知らなければ”排除”する事もできないから。

そして自分自身を少しずつ分かって行くことで、正当に他者との「置き換え」を可能とするようになるのだと思う。コトの同じというより、それに該当するモノと私は考えている。

同じであること、同じくいること。そのそれをどこかで私たちは学び、身に付けるのだけども、協調性ということもやはりどこかで違う学習をしているように思う。


同じコトから同じくするのではなく、そこから観る”同じ”になる交換を観るのだと思う。”同じコト”は表側のヒントであって、それを抽象化したモノの方に事を見るのだと思う。

「他者に他者のそれを見ている」と思っている時ほど、”自分”だったりする、ということ。他者を知るには自分を知り、自分を知るために他者を観ている。

その”観察”をしているうちに、その目線は正に外という他者を見ているものだから、「他者」と思っているけども、自分自身の”意識”が確実に引っかかっている事は、それが外れた時にあからさまになる。

この世の中は「逆」という仕組みがある。本当によく出来たものだと思う。


意識をクリクリ替えながら、表の言葉をつけていくのが難しかった(^-^;
頭には”こういう風”なイメージはあるのだけども、言葉は難しい。以下の「オマケ」の方が簡潔かもしれない(笑)


自分が「その状態」を作っているとも言えるし、やっているうちに(書いているうちに)脳内にその状態が作られるともどちらも言える。

ワン散歩も終わり、丸一日あった頭痛も収まり始めて、”さて書こう”として前日の状態を思い出す、大分細かい所で苦労したなと。

何かが気になり、そこから抜けるためにさっさと片付けたい…、そんな風に思う時。抜けることより、他への集中(切り替え)で、元の状態から結果的に離れることが有効。

ソコを意識することなく他へ意識が自然と移る。

ここでの”集中”は動作を切り替えることの意味。同じように頭を使う様なことから離れることが目的なので。頭がギュッとした状態からの解放。

いかに心地よく、自分の丁度いい”加減”でいる事が、バランスによって成り立っているか、という事を感じたりする。


【オマケのいーーっぽ】

気づいたでしょうか…

∴「個(自分)と全体」は一緒となること。”分離”されていないと言えるということ。

”私”と思っているこの器の中は様々でできている。この広い世界は色々様々で出来ている、サイズは違っても。

何が”分けて”いたのでしょうか?

まずは「コトバ」

この言葉が、これに付いているその意味が、世界を分けてしまう。

使う字も違う、音も意味も違う。それを当然のものとして分類して使っている。そして事実、”同じ”ものをしっかりと分けてしまう力も私たちは持っている―――、それを「思い込み」という。

ヘンに活用すればイヤな結び付けをしてしまう思い込み。そこにルールはなく、自分が望む「良い方へ」結んで行くことが普通に可能、ということ。

そして「意識」

説明するととてもバカげているけども、そのバカげたことで私たちはこの”世界”をしっかりと創った。意識の使い方で世界はその様に「見えて」しまうというのが私達の仕組み。

信じられなくても半分くらいは、”そうかもしれない…”と呑み込んでもいいと思います(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!